ここでは、比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山)の焼打ち(1571年)から
長島(ながしま=現在の三重県桑名市長島町)一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)を殲滅(せんめつ=すっかり滅ぼすこと)する(1574年)まで勉強します。
1571年(元亀二年)5月、長島(ながしま=現在の三重県桑名市長島町)一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)攻めに失敗しました。
9月、比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山)を焼討(やきうち)にしました。
1572年(元亀三年)9月、義昭に対して十七カ条の意見書を送付しました。
12月、徳川・織田連合軍、三方ヶ原(みかたがはら=現在の静岡県浜松市北区根洗町)の戦いで武田軍に敗れました。
1573年(天正(てんしょう)元年)2月、義昭(よしあき)、信長に敵対して挙兵の意思を表明しました。
4月、武田信玄(たけだ しんげん)が病没(びょうぼつ)しました。
同月、義昭御所(よしあき ごしょ=二条城=京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある城)を包囲(ほうい)し京都に放火し、義昭(よしあき)、和議(わぎ=和睦のための協議)に応じました。
7月、足利義明(あしかが よしあき)を宇治填島城(うじ まきのしまじょう=現在の京都府宇治市槇島町にあった城)で破り、追放しました。
8月、朝倉(あざい)・浅井(あさくら)を滅(ほろ)ぼしました。
11月、足利義明(あしかが よしあき)に加担(かたん=力添え(ちからぞえ))した三好義継(みよし よしつぐ)を攻めて滅(ほろ)ぼしました。
1574年(天正(てんしょう)二年)1月、越前(えちぜん=現在の福井県北東部)一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)が蜂起(ほうき=大勢の者が一斉に行動を起こすこと)し、越前(えちぜん=現在の福井県北東部)を支配下におきました。
3月、従五位下(じゅごいげ=位階の一。従五位上の下、正六位上の上)に叙任(じょにん=位を授ける)され、昇殿(しょうでん=許されて神社の社殿に昇ること)を許されました。
9月、長島(ながしま=現在の三重県桑名市長島町)一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)を殲滅(せんめつ=すっかり滅ぼすこと)しました。閏11月、領国内の道路・橋の整備を命じました。
以上諸説あり。