ここでは、徳川家康と同盟(1561年)から天下統一の意識を示す(1567年)ところまでを勉強します。
1563年(永禄六年)7月、居城(きょじょう=住む城)を清須城(きよす じょう=現在の愛知県清須市一場にあった城)から小牧城(こまき じょう=現在の愛知県小牧市堀の内にあった城)へ移しました。
1564年(永禄七年)6月、直江兼続(なおえ かねつぐ)を介(かい=仲立ちとする)して上杉謙信(うえすぎ けんしん)と親しい関係を結ぼうと働きかけました。
12月、将軍足利義輝(あしかが よしてる)から御内書(ごないしょ=将軍が出した文書)を頂きました。
1565年(永禄八年)6月、将軍義輝(よしてる)が三好三人衆ら(三好長逸(ながやす)・三好政康(みよし まさやす)・岩成友通(いわなり ともみち))に、ひそかに狙(ねら)われて命を奪(うば)われました。
7月、足利義輝(あしかが よしてる)の弟覚慶(かくけい=のちの足利義昭(あしかが よしあき))は近江(おうみ=現在の滋賀県)へ逃れます。
同7月、尾張犬山城(おわり いぬやま じょう=現在の愛知県犬山市にある城)を攻略します。
9月より、「麟(りん)」の花押(かおう=署名にかわる記号)を使い始めます。
11月、甲斐(かい=現在の山梨県)・武田氏と同盟し、武田勝頼(たけだ かつより)に養女を嫁がせます。
1566年(永禄九年)6月、義昭(よしあき)の推挙(すいきょ=すすめること)により尾張守(おわりのかみ)に任命されました。
同年8月、義昭(よしあき)の上洛(じょうらく=京都へ行く)に供奉(ぐぶ=行列にお供)することを計画するが、斎藤龍興(さいとう たつおき)に阻(はば=くいとめる)まれてしまいます。
1567年(永禄十年)5月、娘を徳川家康に嫁(とつ)がせます。
8月、美濃稲葉山城(みの いなばやま じょう=現在の岐阜県岐阜市金華山にあった城)を攻略します。
9月、浅井氏(あざい し)と同盟しました。
10月、美農加納(みの かのう=現在の岐阜県岐阜市)に楽市令(らくいちれい=自由な商取引を認める)を発布(はっぷ=世の中に広く知らせること)しました。
11月より、「天下布武(てんかふぶ)」の印を使い始め、天下統一の意識を示しました。
以上諸説あり。