細川ガラシャ(9/24)(1586年)

ここでは、1586年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1586年(天正(てんしょう)十四年)聚楽第(じゅらくだい=羽柴秀吉が内野(うちの=現在の京都府京都市上京区(きょうとふ きょうとし かみぎょうく))に建てた政庁(せいちょう=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構※1 を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)上の事務などを行う役所)および邸宅。(※ とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み))が完成し、東山()に大仏殿を造立(ぞうりゅう=建物をたてること)し始め、忠興(ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)も、石垣(いしがき)づくりを手伝いました。10月11日、ガラシャに三男・光千代(みつちよ=1586~1641=細川忠利(ほそかわ ただとし)の幼名。江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)前期の大名(だいみょう=ある地域を支配している者)、豊前小倉藩(ぶぜんこくらはん=豊前(ぶぜん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)にあった藩(はん=諸侯(しょこう=主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲※により国を治める最高位の人)・殿様など)である君主の権威(けんい=他の者を服従(うくじゅう=命令をよく聞いて、素直に従うこと)させる威力(いりょく))の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下である貴族)が治める領地))の第2代藩主。後に肥後熊本藩(ひごくまもとはん=現在の熊本県(くまもとけん)の球磨郡(くまぐん)・天草郡(あまくさぐん)を除く地域と大分県(おおいたけん)の一部(鶴崎(つるさきし)・佐賀関(さがせき)など)にあった藩の初代藩主(※せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと))が生まれました。11月、正親町天皇(おおぎまちてんのう、1517~1593=第106代天皇。在位、1557~1586)が譲位(じょうい=君主が位を譲(ゆず)ること)し、後陽成天皇(ごようぜいてんのう、1571~1617=第107代天皇。在位、1586~1611)が即位(そくい=)したので関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))・秀吉(ひでよし、1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)は、豊臣と姓を改め、若い後陽成天皇の補佐(ほさ=人をたすけて、その務(つと)めをはたさせること)に当たる態勢(たいせい=ある物事に対する身がまえや状態)が出来上がり、忠興も豊臣姓をもらいました。

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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