ここでは、1585年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。
1585年(天正(てんしょう)十三年)忠興(ただおき、1563~1646=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)は、羽柴秀吉(はしば ひでよし、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさする=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)の根来攻め(ねごろぜめ=羽柴軍と根来衆(ねごろしゅう=紀伊国(きいのくに=現在の和歌山県(わかやまけん)、三重県(みえけん)南部)北部の根来寺(ねごろじ)を中心とする一帯(現在の和歌山県岩出市(いわでし))に住んでいた僧兵(そうへい=武装(ぶそう)した下級僧侶(そうりょ=お坊さん))たちの集団)との合戦で、千石堀城(現在の大阪府貝塚市橋本(おおさかふ かいずかし はしもと)にあった城)陥落した)に従軍(じゅうぐん=軍隊(ぐんたい)に従って戦地に行くこと)、次いで丹後(たんご=現在の京都府(きょうとふ)北部)から北国へ船団を送るよう命じられました。7月に秀吉が関白になると、忠興は従四位下(じゅしいげ=位階(いかい=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官僚(かんりょう=官職(律令制における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方)についている人)の序列)における位のひとつ。正四位の下、正五位の上)侍従(じじゅう=君主(くんしゅ=政権の主宰者(しゅさいしゃ=人々の上に立ち、中心になって物事を行うもの))のそばに仕えるもの)に任じられ、羽柴の姓を与えられました。8月、聚楽第(じゅらくだい=羽柴秀吉が内野(うちの=現在の京都府京都市上京区(きょうとふ きょうとし かみぎょうく))に建てた政庁(せいちょう=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構※1 を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)上の事務などを行う役所)および邸宅。(※ とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み))の建設が始まりました。同月、本願寺光佐(ほんがんじ こうさ=1543~1592=顕如(けんにょ)。石山本願寺(いしやまほんがんじ=)住職(じゅうしょく=お寺の偉い人))が、貝塚(かいずか=現在の大阪府貝塚市中(おおさかふかいづかしなか))から天満(てんまん=現在の大坂府大阪市北区天満(きたくてんま))に移り、10月15日、ガラシャが本願寺光佐の正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)に鮭などを送りました。このご贈答(ごぞうとう=物を人に贈(おく)ること)により、ガラシャは正室の地位を回復していました。
以上所説あり。