ここでは、細川ガラシャが亡くなった1600年(亡くなる直前まで)を勉強します。
1600年(慶長(けいちょう)五年) 前年、徳川家康(とくがわ いえやす※1)と前田利家(まえだ としいえ※2)は和睦(わぼく=争いをやめて仲直り)したもののその直後、利家が亡(な)くなったことにより、家康が利家側であった細川忠興(ほそかわ ただおき※3)と前田利長(まえだ としなが※4)が申し合わせて討ってくる(うってくる=攻撃してくる)とういう嫌疑(けんぎ=悪い事をしたのではないかという疑い)が上がったが細川幽斎(ほそかわ ゆうさい※5)の誓詞(せいし=誓いの言葉)や家康家臣(かしん=けらい)榊原康政(さかきばら やすまさ※6)が予てより(かねてより=以前から)忠興と親しかったことなどにより解消されるが忠興の三男・光千代(みつちよ※7)は証人(しょうにん=人質)として、正月25日、大坂を出て江戸に向いました。このことで、徳川家康側に属している(ぞくしている=従う)ことを、細川家は天下(てんか=日本全国)に名言(めいげん=確かにそうだと感じさせるような、すぐれた言葉)することになりました。
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※1 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。豊臣政権(とよとみ せいけん※1-1)の五大老の一人。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。江戸幕府(えどばくふ※1-2)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(家康・織田信長・豊臣秀吉))の一人
※1-1 とよとみ せいけん=安土桃山時代(あづちももやまじだい※1-1-1)の日本における武家政権(ぶけ せいけん※1-1-2)。 豊臣秀吉が、1585年(天正13年)または1590年(天正18年)から創始し、1603年(慶長8年)には完全消滅した
※1-1-1 あづちももやまじだい=織田信長(おだ のぶなが※1-1-1-1)と豊臣秀吉(とよとみ ひでよし※1-1-1-2)が政権(せいけん=※1-1-1-3)を握っていた時代
※1-1-1-1 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人
※1-1-1-2 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人
※1-1-1-3 せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力
※1-1-2 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)
※1-2 とくがわ ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権
※2 まえだ としいえ、1539~1599=武将、戦国大名。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人。加賀藩(かがはん=現在の石川県(いしかわけん)南部と石川県(いしかわけん)北部(能登半島(のとはんとう))と富山県(とやまけん)の大半を領地とした藩(※2-1))主(しゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。
※2-1 はん=諸侯(しょこう=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)の大名)が治める領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)、およびその統治(とうち=まとめおさめること)組織
※3 ほそかわ ただおき、1563~1646=ガラシャの夫。武将、大名、茶人(利休門三人衆(りきゅうもんさんにんしゅう=千利休(せんのりきゅう=商人、茶人)の高弟3人)、利休七哲(りきゅうしちてつ=千利休の高弟7人)、利休十哲(りきゅうじってつ=千利休の高弟10人)の一人)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩)初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家初代。
※4 まえだ としなが、1562~1614=武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男
※5 ほそかわ ゆうさい、1534~1610=細川藤孝(ほそかわ ふじたか)。武将、大名。詩人。細川忠興の父
※6 さかきばら やすまさ、1548~1606=武将・大名。上野国館林藩(こうずけのくに たてばやしはん=現在の群馬県館林市城町に存在した藩)の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。徳川三傑(とくがわさんけつ※6-1)・徳川四天王(とくがわしてんのう※6-2)・徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう※6-3)の一人。
※6-1 とくがわさんけつ=本多忠勝(ほんだ ただかつ※6-1-1)、榊原康政、井伊直政(いい なおまさ※6-1-2)
※6-1-1 ほんだ ただかつ、1548~1610=武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩(かずさのくに おおたきはん=現在の千葉県夷隅郡(ちばけん いすみぐん)に存在した藩)初代藩主、伊勢桑名藩(いせ くわなはん=現在の三重県桑名市(みえけん くわなし)に存在した藩)初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原(ふじわら)氏。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川三傑・徳川四天王・徳川十六神将の一人。
※6-1-2 いい なおまさ、1561~1602=武将・大名。井伊氏第24代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。 上野国(こうずけのくに=現在の群馬県(ぐんまけん))高崎藩(たかさきはん※6-1-2-1)の初代藩主(はんしゅ=とのさま)。後に近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))佐和山藩(さわやまはん※6-1-2-2)の初代藩主。徳川三傑・徳川四天王・徳川十六神将の一人。
※6-1-2-1 たかさきはん=現在の群馬県高崎市周辺を領した藩
※6-1-2-2 さわやまはん=現在の滋賀県彦根市古沢町(しがけん ひこねし ふるさわちょう)に存在した藩
※6-2 とくがわ してんのう=徳川三傑と酒井忠次(さかい ただつぐ※6-2-1)
※6-2-1 さかい ただつぐ、1527~1596=武将・大名。三河(みかわ=現在の愛媛県(えひめけん)東半部)の武将。徳川氏の家臣。・徳川四天王・徳川十六神将の一人。
※6-3 とくがわじゅうろくしんしょう=徳川四天王と米津常春(よねきづ つねはる)、高木清秀(たかぎ きよひで)、内藤正成(ないとう まさなり)、大久保忠世(おおくぼ ただよ)、大久保忠佐(おおくぼ ただすけ)、蜂屋貞次(はちや さだつぐ)、鳥居元忠(とりい もとただ)、鳥居忠広(とりい ただひろ)、渡辺守綱(わたなべ もりつな)、平岩親吉(ひらいわ ちかよし)、服部正成(はっとり まさなり=服部半蔵(はんぞう))、松平康忠(まつだいら やすただ)
※7 みつちよ、1586~1641=細川忠興の三男で、母はガラシャ。細川忠利(ほそかわ ただとし)の幼名(おさなな=元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)前の名)。江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)前期の大名、豊前小倉藩(ぶぜんこくらはん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部にあった藩(※3))の第2代藩主。後に肥後熊本藩(ひごくまもとはん=現在の熊本県の球磨郡(くまぐん)・天草郡(あまくさぐん)を除く地域と大分県の一部(鶴崎(つるさき)・佐賀関(さがのせき)など))の初代藩主
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2月、忠興は家康から豊後杵築(ぶんご きずき=現在の大分県(おおいたけん)杵築市)に六万石を加増されました。これで、本領(ほんりょう=もとからの領地)・丹後(たんご=現在の京都府(きょうとふ)北部)と合わせて十八万三千石となり、丹後と豊後を往復し、大坂や伏見に屋敷をもち、江戸に光千代を人質として置いているという、全国に目配りをしなければいけない状況に置かれることになりました。いっぽう、前田家は家老横山長知(よこやま ながちか※8)が忠興の仲介で井伊直政を通じて家康に申し開きをなし、利長の母・まつ(まつ※9)を人質として江戸へ送ることに決まりました。
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※8 よこやま ながちか、1568~1646=武将、加賀藩(かがはん=石川県(いしかわけん)と富山県(とやまけん)の大半を領地とした藩(※))前田家の家臣
※9 まつ、1547~1617=前田利家(※1)の正室(身分ある人の正式な妻)。のちの芳春院。篠原一計(しのはら かずえ、?~1549=武将、織田信秀の家臣)の子。
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3月20日、忠興は大坂を出立(しゅったつ=出発)し、いったん本領の丹後に帰還(きかん=旅先、戦地、軍隊などから基地、故郷などへ帰ること)しました。4月初め、丹後を発(た)ち同月14日ごろ杵築に到着し、松井康之(まつい やすゆき※10)・有吉立行(ありよし たつゆき※11)の案内で、領内の巡見(じゅんけん=あちこち巡(めぐ)って見てまわること)を行いました。忠興は豊後中津(なかつ=現在の大分県中津市)の黒田如水(くろだ じょすい※12)から、佐田(さだ=現在の大分県宇佐市(うさし))で談合したい議があるのでと誘われたりした。
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※10 まつい やすゆき、1550~1612=武将。松井正之(まつい まさゆき※10-1)の次男
※10-1 まつい まさゆき、~1563=将軍(しょうぐん=征夷大将軍)・足利義晴(あしかが よしはる※10-1-1)の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)
※10-1-1 あしかが よしはる、1511~1612=室町幕府(むろまちばくふ※10-1-1-1)第12代将軍
※10-1-1-1 むろまちばくふ=室町時代(むろまちじだい=足利(あしかが)将軍家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代)における日本の武家政権。足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が京都で創始した。
※11 ありよし たつゆき、1559~1608=細川幽斎・忠興父子の家臣
※12 くろだ じょすい、1546~1604=黒田官兵衛(くろだ かんべえ)、黒田孝高(くろだ よしたか)。武将・大名。筑前国福岡藩(ちくぜんのくに ふくおかはん=現在の福岡県(ふくおかけん)西部ほぼ全域を領有した藩)祖(そ=家系の最初の人)
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4月28日、忠興弟・玄蕃(げんば※13)・家臣米田是政(こめだ これまさ※14)から文箱(ふばこ=手紙を入れて、届けるために持って歩く箱)が届き、家康が豊臣秀頼(とよとみ ひでより※15)の御名代(みなしろ=代理)として豊臣家・家臣を召し連れて(めしつれて=目下の人や家来を一緒に連れて)上杉討伐(うえすぎ とうばつ=軍隊を送り、上杉氏をうち滅(ほろ)ぼし)に出発し、先手は福島正則(ふくしま まさのり※16)・加藤嘉明・忠興の三人に決まったと注進(ちゅうしん=急いで報告)してきました。忠興は急遽(きゅうきょ=あわただしくいそいで)29日に杵築から出船し(でぶねし=船で港を出て)、5月5日に大坂に着くと早々登城(とうじょう=城に参上(さんじょう))し、秀頼より出立(しゅったつ=出発)命令を受け、そく丹後に帰国して、出陣(しゅつじん=戦争に出向くため)の用意をしました。同月、利長の母・まつが伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふ きょうとし ふしみく))を発って6月3日に江戸(現在の東京(関東平野(かんとう へいや)の中心部))に着いていました。
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※13 げんば、1566~1619=細川興元(ほそかわ おきもと)。武将。常陸谷田部(ひたち やたべ)細川家初代・下野茂木(しもつけ もてぎ)藩主。のち常陸(ひたち=茨城県の大部分)谷田部藩(やたべはん=常陸にあった藩)初代藩主
※14 こめだ これまさ、1558~1600=米田助右衛門(こめた すけえもん)。米田宗堅(こめた そうけん※14-1)の子。父とともに細川幽斎につかえていた武士
※14-1 こめた そうけん、1526~1590=もとは将軍・足利義輝(あしかが よしてる※14-1-1)につかえていました。永禄(えいろく)8年に義輝が松永久秀(まつなが ひさひで※14-1-2)に殺されると、奈良に幽閉された(ゆうへいされた=ある場所に閉じこめられた)義輝の弟の一乗院覚慶(いちじょういん かくけい※14-1-3)を細川幽斎とともにすくいだし、永禄11年織田信長の助力で将軍に擁立(ようりつ=支持し、もりたて、高い地位に就かせようとすること)。のち義昭と不和(ふわ=不仲)になり、幽斎の家臣となった武士。米田是政の父。
※14-1-1 あしかが よしてる、1536~1565=室町幕府第13代征夷大将軍
※14-1-2 まつなが ひさひで、1508~1577=松永弾正(まつなが だんじょう)。.武将。大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん))の戦国大名
※14-1-3 いちじょういん かくけい、1537~1597=足利義昭(あしかが よしあき)。室町幕府の第15代征夷大将軍
※15 とよとみ ひでより、1597~1615=大名。太閤・秀吉の三男
※16 ふくしま まさのり、1561~1624=武将・大名。賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり=秀吉方で功名をあげた兵のうち7人。脇坂安治(わきざか やすはる)、片桐且元(かたぎり かつもと)、平野長泰(ひらの ながやす)、福島正則、加藤清正(かとう きよまさ)、糟屋武則(かすや たけのり)、加藤嘉明(かとう よしあきら※16-1))の一人
※16-1 かとう よしあきら、1563~1631=武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。伊予松山藩(いよまつやまはん=現在の愛媛県松山市(えひめけん まつやまし)を中心に知行(ちぎょう=領地や財産を直接支配すること)した藩(※))および陸奥会津藩(むつ あいづはん=現在の福島県(ふくしまけん)西部と新潟県(にいがたけん)および栃木県(とちぎけん)の一部を治めた藩)初代藩主
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6月27日、忠興は嫡男(ちゃくなん=あととり)与一郎忠隆(よいちろうただたか※17)と共に宮津(みやつ=現在の京都府宮津市(きょうとふ みやつし))を出発し、7月9日信州望月(しんしゅう もちづき=現在の長野県佐久市(ながのけん さくし)望月)、10日山中(やまなか=現在の石川県加賀市(いしかわけん かがし)にあった町)、12日高崎(たかさき=現在の群馬県高崎市(ぐんまけん たかさきし))、13日太田(おおた=現在の群馬県太田市(ぐんまけん おおたし))、16日に宇都宮(うつのみや=現在の栃木県宇都宮市(とちぎけん うつのみやし))の北に野陣(のじん=野外にかまえた陣営(じんえい=戦場で軍勢(ぐんぜい=軍隊)が集結して待機している所))しました。この間に大坂の屋敷から一回目の飛脚(ひきゃく=速く走り、手紙を運ぶ者)が到来(とうらい=おくりものがとどくこと)しました。小笠原小斎(おがさわら しょうさい※19)からの7月9日付の書状(しょじょう=手紙)でした。内容は、石田三成(いしだ みつなり※18)の軍が蜂起(ほうき=一斉(いっせい)に行動を起こ)し、家康を敵として、幽斎のいる丹後へ丹波(たんば=現在の京都府(きょうとふ)中部、兵庫県(ひょうごけん)北東部、大阪府(おおさかふ)北部)・但馬(たじま=現在の兵庫県(ひょうごけん)北部)の衆が押し寄せるとのこと、そして諸大名の奥方(おくがた=身分の高い人の妻)を人質として大坂城に取り入れるとの噂(うわさ)があることを上様(かみさま=ガラシャ)に申し上げると、決して登城しないのでお気遣いなされれないようにとのことでした。忠興は大坂に家臣を遣わし、すぐに丹後の幽斎の元に行くようにと命じ、幽斎に密書(みっしょ=秘密の手紙)を出し、豊後杵築の松井・有吉にも杵築の家臣たちに対しては丹後へ向かい、残るものは黒田如水の居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)に移るように書状を出しました。
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※17 よいちろうただたか、1580~1646=武将。細川忠興の長男
※18 いしだ みつなり、1560~1600=武将・大名。豊臣家家臣。豊臣政権の五奉行(ごぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行う五人のひと。三成以外は、浅野長政(あさの ながまさ※18-1)、増田長盛(ますだ ながもり※18-2)、前田玄以(まえだ げんい※18-3)、長束正家(なつか まさいえ※18-4))の一人
※18-1 あさの ながまさ、1547~1611=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。浅野家14代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分)真壁藩(まかべはん=※18-1-1)初代藩主
※18-1-1 まかべはん=常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県桜川市真壁町(いばらきけん さくらがわし まかべちょう))に存在した藩
※18-2 ますだ ながもり、1545~1615=武将、大名。豊臣政権五奉行の一人
※18-3 まえだ げんい、1539~1602=僧侶(そうりょ=お坊さん)・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人
※18-4 なつか まさいえ、1562~1600=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人
※19 おがさわら しょうさい、~1600=小笠原秀清(ひできよ)。武将。細川氏家臣。細川ガラシャを介錯した人物
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以上所説あり。