細川ガラシャ(21/24)(1597~1598年)

ここでは、1597~1598年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1597年(慶長(けいちょう)二年) 前年に細川忠興(ただおき、※1)は従三位(じゅさんみ=位階および神階における位のひとつ)参議(さんぎ=律令制のもとで設けられた朝廷の官職)に昇任(しょうにん=役が上になること)し「越中守(えっちゅうのかみ)」に任ぜられたこのことにより、細川家に思わぬ余波(よは=影響)をもたらしました。正月、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、※2)は忠興の嫡子・忠隆(ただたか、1580~1646=武将)と前田利家(まえだ としいえ、※3)の娘・千世(ちよ、※4)の婚姻(こんいん=結婚(けっこん))を勧め、織田信長が忠興とガラシャの婚姻を命じたのと同じく、秀吉の命での婚姻が実現(じつげん)しました。いっぽう、前年に起きた「慶長大地震(けいちょう だいじしん=畿内(きない=京都(きょうと)に近い国々。山城(やましろ=現在の京都府(きょうとふ)南部)・大和(やまと=現在の奈良県(ならけん))・河内(かわうち=現在の大阪府(おおさかふ)東部)・和泉(いづみ=現在の大阪府南西部(大和川(やまとがわ)以南))・摂津(せっつ=現在の大阪府北中部の大半と兵庫県(ひょうごけん)南東部)の5か国)で起きた大地震)」直後から修築(しゅうちく=修理)してきた伏見城(ふしみじょう=現在の京都府京都市伏見区桃山(ももやま)地区にあった城)が5月に完成しました。この時代での工事期間の短さは、目を驚かすばかりでした。秀吉は移徒(わたまし=転居(てんきょ=ひっこし))し、次いで秀頼も伏見城に同居するようになりました。また、秀吉は今年初めごろから、京都に新邸(しんてい=新しいやしき)を築き始め、9月には完成し秀吉父子は京都の新邸に向っていました。

1598年(慶長三年)3月15日、醍醐の花見(だいご の はなみ=秀吉が京都(きょうと)南郊の醍醐寺(だいごじ=現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町(ふしみく だいごひがしおおじちょう)にある仏教寺院)の三宝院(さんぼういん)で行なった花見の会)が催(もよお=開催)されました。5月、太閤・秀吉と秀頼(ひでより、1597~1615=大名。太閤・秀吉の三男)は同じ車で参内(さんだい=宮中(きゅうちゅう=天皇の住居の中)に参上すること)し、忠興・忠隆父子も扈従(こしょう=おとも)して、「御沓役(おくつやく=履物を差し出したり片付けたりする役)」と供奉(ぐぶ=おともの行列)を努めました。この時、忠隆は従四以下(じゅしいげ=位階(いかい=※5)の一つ)に叙され(じょされ=位階(いかい=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官僚(かんりょう=官職(律令制における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方)についている人)の序列)をさずけられ)、侍従(じじゅう=君主(くんしゅ=政権の主宰者(しゅさいしゃ=人々の上に立ち、中心になって物事を行うもの))のそばに仕えるもの)となっていました。羽柴の苗字(みょうじ=家の名)と桔梗の紋(ききょうのもん=キキョウの花をかたどったもの)をこの時拝領し(はいりょうし=いただき)ました。これらの秀吉の施策(しさく=ほどこすべきたいさく)は、秀頼を後継者(こうけいしゃ)として世間(せけん)に認知(にんち)させるための行為(こうい)であり、秀頼を囲む体制(たいせい)づくりに他なりませんでした。8月18日、激動(げきどう)の時代を生きた豊臣秀吉が伏見城で薨じ(こうじ=なくなり)ました。64歳でした。秀吉の死は翌年まで秘され(ひされ=秘密にされ)、妙法院(みょうほういん=現在の京都府京都市東山区妙法院前側町(きょうとふ きょうとし ひがしやまく みょうほういんまえかわちょう)にある寺院)に葬られ(ほうむられ=死体や遺骨(いこつ=火葬した(かそうした=遺体(いたい=死体)を焼いた)あとに残った骨)を墓や土中に埋められ)ました。

※1 1563~1646=細川ガラシャの夫。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ほそかわけ)初代

※2 1537~1598=武将・大名。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)において天下を統一へ導いた三人(秀吉・織田信長(おだ のぶなが、※2-1)・徳川家康(とくがわ いえやす、※2-2)))の一人

※2-1 1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人。三英傑の一人

※2-2 1543~1616=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。江戸幕府(えどばくふ=※2-2-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑の一人

※2-2-1 家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん=※2-2-1-1)

※2-2-1-1 武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)

※3 1539~1599=武将、戦国大名。加賀(かが=現在の石川県(いしかわけん)南部)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人

※4 1580~1641=春香院(しゅんこういん)。前田利家(まえだ としいえ、※4-1)とまつ(まつ、1547~1617=芳春院(ほうしゅんいん))の七女。細川忠隆と婚姻、離婚。村井長次(むらい ながつぐ、1568~1613=武将。前田家の家臣(かしん=けらい))と再婚。

※4-1 1539~1599=武将、戦国大名(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代で、各地に領国を形成した大名)。加賀(かが=現在の石川県(いしかわけん)南部)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人

※5 律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官僚(かんりょう=官職(律令制における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方)についている人)の序列

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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