細川ガラシャ(3/24)(1577年~1578年)

ここでは、1577年から1578年までに、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1577年(天正(てんしょう)五年)2月、細川忠興(ほそかわ ただひで1563~1646=のちのガラシャの夫。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地)する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)が初陣し(ういじんし=初めて戦いに出)、貝塚(かいずか=現在の大阪府貝塚市(おおさかふ かいずかし))一揆(いっき=地侍(じざむらい=侍身分の一種)・農民・信徒(ある宗教の信者)らが団結して起こした暴動)を攻撃しました。10月には父子共に大和(やまと=現在の奈良県(ならけん))から丹波(たんば=現在の京都府(きょうとふ)中部、兵庫県(ひょうごけん)北東部、大阪府(おおさかふ)北部)へ攻撃(こうげき)の矛先(ほこさき=攻撃(こうげき)の方向)を転じ、亀山(かめやま=現在の三重県亀山市(みえけん かめやまし))、篠山(しのやま=現在の兵庫県丹波篠山市(ひょうごけん たんばし のやまし))、久下(くげ=現在の兵庫県丹波市(ひょうごけん たんばし))、可部(かべ=現在の広島県広島市安佐北区可部(ひろしまけん ひろしまし うさきたく かべ))、籾井(もみい=現在の兵庫県丹波篠山市(ひょうごけん たんばささやまし))、管(すげ=現在の島根県邑智郡邑南町(しまねけんおおちぐんおおなんちょう))などの城を攻(せ)め落としました。細川藤孝(ほそかわ ふじたか1534~1610=武将、大名。詩人。)父子は、明智光秀(~1582=武将、大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと))の旗下(きか=大将の支配下)で丹波攻略(こうりゃく=攻(せ)めて、奪いとること)していました。

1578年(天正六年)8月、ガラシャは青龍寺城(しょうりゅうじじょう=)で忠興と結婚しました。姉は、荒木村重(あらき むらしげ=武将・大名。利休十哲(りきゅう じってつ=千利休(せんのりきゅう=商人、茶人)の高弟(こうてい=弟子(でし)の中で、特にすぐれた弟子)10人)の1人)の嫡男(ちゃくなん=あととり)・新五郎村安(しんごろう むらやす=武将。のちの荒木村次(あらき むらつぐ))と結婚していました。ところが10月、荒木村重・村安父子が、織田信長(おだ のぶなが1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人)に謀叛(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こすこと)の疑いを懸(か)けられ、伊丹城(いたみじょう=現在の兵庫県伊丹市(ひょうろけん いたみし)にあった城)に籠城(ろうじょう=城にこもり敵と戦うこと)をやむなくすることになり、信長軍に攻撃(こうげき)されました。その際、光秀が信長と荒木の間に入って交渉(こうしょう=相手と話合いをして、取り決めようとすること)をしましたが、決裂(けつれつ=意見が一致しないで折り合いがつかないこと)し、合戦(かっせん=戦うこと)になりました(かっせんになりました=戦うことになりました)。

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA