細川ガラシャ(18/24)(1595年<1>)

ここでは、1595年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1595年(文禄(ぶんろく)四年)この年の初め、キリシタン(きりしたん=ポルトガル語でキリスト教徒(きりすときようと=イエスを救世主として信じる宗教の信者)。英語でクリスチャン)であった蒲生氏郷(がもう うじさと、1556~1595=蒲生賢秀(がもう かたひで、1556~1595=蒲生賢秀(がもう かたひで、1534~1584=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。六角(ろっかく)氏、織田(おだ)氏の家臣(かしん=けらい))の三男。武将)が四十歳で亡(な)くなりました。2月、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、※1)は会津若松(あいづわかまつ=現在の福島県会津若松市(ふくしまけん あいずわかまつし))九十二万石(ごく=体積の単位(一石=一人が一年食べる米の量、一石=十斗(と)=百升(しょう))、一石=現在の180.39 L)を氏郷の子息(しそく=男の子供)・鶴千代(つるちよ=1583~1612=蒲生秀行(がもう ひでゆき)の幼名。大名。陸奥会津藩(むつあいづはん=現在の福島県(うくしまけん)西部と新潟県(にいがたけん)および栃木県(とちぎけん)の一部を治めた藩(はん=江戸時代(えど=徳川将軍家が日本を統治し(まとめおさめ)ていた時代)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)の領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)と統治機構(とうちきこう=国を統治する仕組み)))主(しゅ=とのさま))に継(つ)がせ、元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)させ、秀吉から偏諱(へんき=身分の高い人などの二字の名の一方の字)をもらい藤三郎(うじさぶろう)「秀隆(ひえたか)」と名乗らせ、徳川家康(とくがわ いえやす=※2)の娘「振姫(ふりひめ=正清院(しょうせいいん、1580~1617=徳川家康の三女で、母は側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)・良雲院((りょううんいん、~1637))。1595~1612、蒲生秀行の正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)。1615~1617、浅野長晟(あさの ながあきら、※3)の正室)」と婚姻(こんいん=結婚(けっこん))させました。蒲生の老臣(ろうしん=年をとった家来)たちを諫め(あやめ=心をこめて、あやまちや欠点などを直すように言い)、上杉(うえすぎ)、佐竹(さたけ)、最上(もがみ)、伊達(だて)の諸氏(しょし=みなさん)に秀隆を補佐(ほさ=人をたすけて、その務(つと)めをはたさせること)させる態勢(たいせい=ある物事に対する身がまえや状態)をつくりました。ところが蒲生秀隆の領地安堵(りょうちあんど=その者の領地の所有を保証した制度)は豊臣秀次(とよとみひでつぐ、※4)が行っており、秀吉は秀隆が提出した知行目録(ちこうもくろく=知行宛行状(しぎょうあてがいじょう=※5)に付属する文書で、知行地(ちぎょうち=家臣に俸禄(ほうろく=給与(きゅうよ=金銭や品物をあてがい与えること))として支給した土地)とその高の明細を書き記したもの)を疑い、近江二万石を減封(げんぽう=所領や城・屋敷の一部を削減)しようしましたが、上杉・毛利(もうり)両氏の取りなしで蒲生氏の疑(うたが)いは解(と)け、秀隆は浅野長政(あさの ながまさ、※6)に同行されて、7月11日、会津(あいづ=現在の福島県(ふくしまけん)の西部あたり)に入国することになりました。このことで家康にとっては、また関東を拝領したこと(はいりょうしたこと=目上の人から物をいただくこと)で、着々とその勢力の拡大と支配固めを為していました(なしていました=作り上げていました)。一方、秀次への不信感(前年の秀次居所(きょしょ=居住する場所)聚楽第(じゅらくだい=※7)普請(ふしん=※8)させていた事と今年6月14日に朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行うところ)へ金五千枚を献上(けんじょう=さしあげること)した事などの浪費)が増幅し、秀次が自信の関白としての立場を補強するためと秀吉側の陣営から疑われ、奉行・石田三成(いしだ みつなり、※9)から秀吉に「秀次に謀叛(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こすこと)あり」という讒言(ざんげん=事実をまげ、いつわって人を悪く言うこと)がありました。秀吉は石田三成・増田長盛に秀次を詰問(せつもん=相手を責めて厳しく問いただすこと)させ、さらに前田玄以を聚楽第に遣(つか)わして官職を剥奪し(はくだつ=無理にうばい)、7月8日、高野山(こうやさん=現在の和歌山県伊都郡高野町高野山(わかやまけん いとぐん こうやちょう こうやさん))に追放(ついほう=犯罪(はんざい)を起こした人物を地域より放逐(ほうつい=追い払うこと)する刑罰(けいばつ))し、同月15日に切腹(せっぷく=自分で腹を切って死ぬこと)させました。秀次の妻子はいったん亀山城(かめやまじょう=亀岡城(かめおかじょう)。現在の京都府亀岡市荒塚町(きょうとふ かめおかし あらつかちょう)にあった城)にとらえたあと、30人余りが三条河原(さんじょうかわら=現在の京都府京都市三条通(きょうし さんじょうどおり)の三条大橋(さんじょうおおはし)付近の鴨川(かもがわ)の河原)で処刑され(しょけい=死刑がとりおこなわれ)、前野(まえの)父子(前野長康(まえの ながやす、~1595=実名は坪内光景(つぼうち みつかげ)。武将・大名。豊臣氏の家臣)、前野長重(まえの ながしげ、~1595=別名は前野景定(まえの かげさだ)、実名は坪内景定(つぼうち かげさだ)。武将。豊臣氏の家臣))なども一味(いちみ=同じ仲間)であったとして処刑されました。尚、長重の妻・長(ちょう)は、忠興の長女であったため、細川家に預けられました。石田三成・増田長盛は豊臣秀頼(とよとみ ひでより、1593~1615=大名。太閤・豊臣秀吉の三男)に忠誠(ちゅうせい=まごころをもって尽くすこと)を誓(ちか)い、秀次に代わって秀頼が秀吉政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)の後継者(こうけいしゃ=)となりましたが、秀次が朝廷やその他の人々に与えていた金子(きんす=お金)の返還(へんかん=持ち主に返すこと)が問題視(もんだいし=問題であるとみな)され、伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふ きょうとし ふしみく))の秀次邸は秀頼の「傅(もり=おもり、教育、養育)となった前田利家(まえだ としいえ、1539~1599=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、戦国大名。加賀(かが=現在の石川県(いしかわけん)南部)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人)に与えられ、秀次の領地は秀次家臣で秀次に加担(かたん=助けること)しなかった山内一豊(やまうち かずとよ、※10)などに与えられました。

※1 1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)において天下を統一へ導いた三人)の一人

※2 1543~1616=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ=家康が江戸に開いた武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系)政権))の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑の一人

※3 1586~1632=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)前期の大名。備中足守藩(びちゅう あしもり はん=※3-1)主(しゅ=とのさま)、紀伊和歌山藩(きい わかやま はん=※3-2)の第2代藩主、安芸広島藩(あき ひろしま はん=※3-3)の初代藩主。浅野家宗家(そうけ=おおもととなる家)2代

※3-1 現在の岡山県(おかやまけん)にあった賀陽郡(かやぐん)と上房郡(じょうぼうぐん)の一部を領有して(りょうゆうして=自分のものとして持って)いた藩(はん=※3-1-1)

※3-1-1 諸侯(しょこう=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)の大名(だいみょう=ある地域を支配している者))が治める領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)、およびその統治(とうち=まとめおさめること)組織

※3-2 現在の和歌山県(わかやまけん)と三重県(みえけん)南部を領有していた藩

※3-3 現在の広島県(ひろしまけん)のおおよそ半分を領有していた藩

※4 1568~1595=武将・大名。豊臣氏の2代目関白

※5 主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)から家臣(かしん=けらい)に与えた、知行(ちぎょう=家臣に俸禄(ほうろく=給与(きゅうよ=金銭や品物をあてがい与えること))として土地を支給したこと)の割当てを示しその知行の権利を保証した文書

※6 秀吉が内野(うちの=現在の京都府京都市上京区(きょうとふ きょうとし かみぎょうく))に建てた政庁(せいちょう=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構※6-1 を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)上の事務などを行う役所)および邸宅

※6-1 とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み

※7 1547~1611=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。豊臣政権(せいけん=※7-1)の五奉行(ごぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行う五人のひと。長政以外は、増田長盛(ますだ ながもり、※7-2)、前田玄以(まえだ げんい、※7-3)、石田三成(いしだ みつなり、※7-4)、長束正家(なつか まさいえ、※7-5))の一人。浅野家14代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分)真壁藩(まかべはん=※7-6)初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※7-1 政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力

※7-2 1545~1615=武将、大名。豊臣政権五奉行の一人

※7-3 1539~1602=僧侶(そうりょ=お坊さん)・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※7-4 1560~1600=武将・大名。豊臣家家臣(かしん=けらい)。豊臣政権の五奉行の一人

※7-5 1562~1600=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※7-6 常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県桜川市真壁町(いばらきけん さくらがわし まかべちょう))に存在した藩(はん=江戸時代(えど=徳川将軍家が日本を統治し(まとめおさめ)ていた時代)、大名の領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)と統治機構)

※8 土木(どぼく=道路や橋、歩道橋、ダムなどの人が生活するのに必要または生活を便利にするためにつくること)・建築(けんちく=建物(たてもの)を新築(しんちく=新たに家を建てること)し、増築(ぞうちく=今までの建物に、さらに新たに建て加えること)し、改築(かいちく=建物の全部または一部を新しく建てかえること)し、又は移転(いてん=引っ越し)すること)の工事

※9 1560~1600=武将・大名。豊臣家(とよとみけ)家臣(かしん=けらい)。豊臣政権(せいけん=※9-1)の五奉行の一人

※9-1 政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力

※10 1545~1605=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。土佐山内氏(とさやまうちし=藤原北家秀郷流の備後山内氏(ふじわらほっけ ひえさとりゅう の ぶんご うちやまし=※10-1)の分家)、土佐藩(とさはん=※10-2)初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※10-1 藤原房前(ふじわら の ふささき=※10-1-1)が祖で藤原秀郷(ふじわら の ひでさと=※10-1-2)の流れを継ぐ佐藤氏(さとうし)から発生した一族

※10-1-1 681~737=飛鳥時代(あすかじだい=飛鳥(あすか=現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥(ならけん たかいちぐん あすかむら おおあざ あすか)周辺)に都城(とじょう=城の周囲を取り囲む壁や石垣(いしがき=石を積み上げてつくった壁))が置かれていた592年(崇峻天皇(すしゅんてんのう)5年)から710年(和銅(わどう)3年)にかけての118年間を指す)から奈良時代(ならじだい=平城京(現在の奈良県奈良市(ならけん ならし))に都が置かれた710年(和銅3年)~794年(延暦(えんりゃく)13年)にかけての74年間を指す)前期にかけての貴族(きぞく=身分や家柄の尊い(たっとい=地位・身分などがきわめて高い)人)。藤原不比等(ふじわら の ふひと=※10-1-1-1)を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家(ふじわらほっけ)の祖(そ=祖先)。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。

※10-1-1-1 659~720=飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿(くぎょう=※10-1-1-1-1)。藤原鎌足(ふじわら の かまたり=※10-1-1-1-2)の次男

※10-1-1-1-1 公(こう)と卿(けい)の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官(ちょうかん=役人)をいう。参議は四位も含める。

※10-1-1-1-2 614~669=飛鳥時代の政治家(せいじか=国を治める活動)。日本の歴史における最大氏族「藤原氏(ふじわら うじ)」の始祖(しそ=ある家系の最初の人)。

※10-2 土佐国(とさのくに=現在の高知県)一円(いちえん=全域(ぜんいき))を領有した(りょうゆうした=自分のものとして持った)外様藩(とざまはん=※10-2-1)

※10-2-1 将軍の一門(いちもん=一族)または譜代(ふだい=代々その家系を継いで来ること)の家臣(かしん=けらい)でない藩(はん=諸侯(しょこう=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)の大名(だいみょう=ある地域を支配している者))が治める領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)、およびその統治組織)

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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