ここでは、1593年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。
1593年(文禄(ぶんろく)二年)3月、朝鮮 (ちょうせん=現在の大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)) への物資や人馬の輸送を担当していた豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ、※1)が、本来、主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)秀吉(ひでよし、※2)が戦功(せんこう=戦いの手柄)を賞する(しょうする=ほめたたえること)ところを、脇坂(わきさか)氏の水軍が大きな働きをしたとして、戦功を賞しました。また秀吉家臣(かしん=けらい)藤堂高虎(とうどう たかとら、※3)に対して近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))・美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)・伊勢(いせ=三重県(みえけん)北中部、愛知県弥富市(あいちけん やとみし)の一部、愛知県愛西市(あいさいし)の一部、岐阜県海津市(かいづし)の一部)の地を加増(かぞう=加えふやすこと)し、8月には吉川広家(きっかわ ひろいえ、※4)に対し戦功を賞し、直臣(じきしん=直属の家臣)生駒氏に所領(領有している土地)給与(きゅうよ=金銭や品物をあてがい与えること)を是認(ぜにん=よいと認めること)しました。
※1 1568~1595=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。豊臣氏の2代目関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))
※2 1537~1598=武将・大名。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)において天下を統一へ導いた三人)の一人
※3 1556~1630=武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
※4 1561~1625=武将。周防国岩国領初代領主。毛利家の家臣
8月3日、秀頼(ひでよし、1593~1615=大名。太閤・豊臣秀吉の三男)が誕生し、秀吉は急いで朝鮮討伐の儀(ちょうせんとうばつのぎ=現在の大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮))に軍隊を送り、抵抗(はんこう)する者をうち滅(ほろ)ぼすこと。文禄の役。)の最中、名護屋(なごや=現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋(さがけん からつし ちんぜいちょう なごや))から帰洛(きらく=都(京都)に帰ること)しました。9月、秀吉は秀次を伏見(ふしみ=現在の京都市伏見区(きょうとし ふしみく)内)に呼んで、かってに戦功を賞することなどを訓戒し(くんかいし=物事の是非(ぜひ=良いことと悪いこと)、善悪(ぜんあく=良いことと悪いこと)などを教えさとして、戒め(いましめ=悪い事を起こさせないように注意))ました。11月、秀吉は、細川家家臣(かしん=けらい)・松井康之(まつい やすゆき、=※5)に領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)安堵状(あんどじょう=土地の所有権・領有権・知行権などを幕府・領主が公認したことを書いた書状)を発給(はっきゅう=出して与えること)しました。秀吉は松井康之を細川の陪臣(ばいしん=直臣(じきしん=直属の家臣(かしん=けらい))の臣下(しんか=けらい))から直参(じきさん=主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)に直接仕える家来)に取り立て、石見半国(いしみはんこく=現在の島根県(しまねけん)西部の半分)を与えようと述べたが、松井が幽斎(ゆうさい、※11)恩遇(おんぐう=情け深いもてなし)から主家(しゅけ=主人の家)と同列に並ぶのは忍び難い(しのびがたい=我慢することができない。耐えがたい)と断ったので、城州(じょうしゅう=山城国(やましろのくに=現在の京都府(きょうとふ)南部))神童子村(じんどうじ=現在の京都府木津川市山城町神童子(ふきづがわし やましろちょう じんどうじ))百六十余石を加増することにし、松井の母に対して以前、八瀬村(やせむら=現在の京都府京都市左京区八瀬(きょうとふ きょうとし さきょうく やせ))十三石一斗(と=1/10石)二升(しょう=1/100石)を与えていたので、合わせて康之への知行(ちぎょう=家臣に俸禄(ほうろく=給与(きゅうよ=金銭や品物をあてがい与えること))として土地を支給したこと)安堵(あんど=土地の所有権・領有権・知行権などを幕府・領主が公認したこと)の朱印状(しゅいんじょう=朱印を押した文書)を与えました。この知行安堵に際して秀吉が「松井は常に茶道(さどう)に志深(こころざしふか)きゆへ茶料(ちゃりょう=お茶代)にすべし」と述べています。細川家では、忠興(ただおき、※12)ばかりでなく、重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)たちも茶道を嗜む(たしなむ=芸事などの心得がある)者が多くいました。この年の冬、文禄の役がいったん講和(こうわ=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復すること)に持ち込まれたことで、諸将(しょしょう=多くの将軍・大将)は帰国、忠興も帰国しました。12月、秀吉蔵入地(くらいりち=直轄領(ちょっかつりょう=直接支配する領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)))尾張八郡(おわり はちぐん=尾張国(おわりのくに=現在の愛知県(あいちけん)西部))を秀次は検地(けんち=領地の支配者が、自分の土地を把握するために行った土地調査のこと)させ、実父・三好吉房(みよし よしふさ、※13)に十万石を与えていたが、検地により十万石を達していないことがわかり、不足分を尾張の蔵入地から与えました。
※5 1550~1612=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。松井正之(まつい まさゆき、※6)の次男。
※6 ~1563=将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=※7))・足利義晴(あしかが よしはる、※8)の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)。
※7 武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。
※8 1511~1612=室町幕府(むろまちばくふ=※9)第12代将軍。
※9 室町時代(むろまちじだい=足利(あしかが)将軍家によって統治されていた時代)における日本の武家政権(ぶけせいけん=※10)。足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が京都で創始した。
※10 武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権。)
※11 1534~1610=細川藤孝(ほそかわ ふじたか)。武将、大名。詩人。
※12 1563~1646=細川ガラシャの夫。武将、大名。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ほそかわけ)初代
※13 1534~1612=武将、大名。豊臣家の一門衆
以上所説あり。