ここでは、1588年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。
1588年(天正(てんしょう)十六年)正月19日、細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、1534~1610=細川藤孝(ほそかわ ふじたか)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。詩人。)邸(てい=大きくてりっぱな家)に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)が御成(おなり=宮家(みやけ=※1)、摂家(せっけ=※2)、将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号))など貴人が外出することや訪ねて来ること。 ※1 皇族(こうぞく=天皇の親族(しんぞく=みうち))で特に宮号(みやごう=皇族(こうぞく=天皇の親族(しんぞく=みうち))男子が天皇より与えられる称号(しょうごう=呼び名)。宮号を有する者は「○○宮」と称す(しょうす=名乗る))を天皇から与えられた家。※2 摂政(せっせい=天皇が幼いときや女性のときに、天皇に代わって政治を行うひと)・関白(かんぱく=※3)に任ぜられる家柄。※3 天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方)。になり、贈物(おくりもの)がありました。そしてこの時、忠興(ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将、大名。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)にも贈物がありました。4月14日、聚楽第(じゅらくだい=豊臣秀吉が内野(うちの=現在の京都府京都市上京区(きょうとふ きょうとし かみぎょうく))に建てた政庁(せいちょう=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構※1 を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)上の事務などを行う役所)および邸宅)への後陽成天皇(ごようぜい てんのう、1571~1617=第107代天皇(在位: 1586~1611))の行幸(ぎょうこう=天皇の外出)に秀吉と共に忠興も供奉し(ぐぶし=おともの行列に加わり)ました。秀吉は行幸の返礼(へんれい=他から受けた礼に対して礼を返すこと)として、15日、京中(きょうちゅう=京都)の朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行うところ)・公家(くげ=朝廷に仕えるもの)寺社(じしゃ=寺院と神社)の料所(りょうしょ=自分のものとしてもつ土地)として、京都の地子(じし=都市の屋敷地に対する宅地税)を提供(ていきょう=自分の持っている物をほかの人の役に立てるよう差し出すこと)しました。6月2日、信長(おだ のぶなが=1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人。三英傑の一人)の七回忌(ななかいき=故人が亡くなってから満6年たった命日(めいにち=亡くなった日)に行われる法要(ほよう=仏教行事))に合わせ、忠興は宮津城下に信齢山泰厳院()を建立し、10月1日、秀吉主催の「北野大茶湯(きたのだいちゃゆ)」では、忠興も「影向の松(ようごうのまつ)」の根かたに茶屋「松向庵(しょうこうあん)」と名付けて秀吉に茶をふるまいました。忠興は公役(くやく=官府から課せられる軍役や夫役)として謀された秀吉の軍役や行幸の供奉などを忠実に果たしていました。ところが、九州の島津討伐から忠興が帰還すると、関白の悪意に影響され、キリシタン(きりしたん=ポルトガル語でキリスト教(きりすときよう=イエスを救世主として信じる宗教)徒。英語でクリスチャン)の乳母のごく些細な過ちに対して、耳と鼻を削いだ上で追い出しました。こうした状況で忠興はガラシャの変化に気づき、そのためガラシャは、離婚を考え始めました。その一方、孫四郎殿(そんしろうどの)や、その妻である丹後のマリイナと呼ばれていた女性と使者を介して連絡を取り合い、信仰を守っていました。この教えにより、一夫一妻多妾制(いっぷいっさいたしょうせい)から一夫一婦制(いっぷいっぷせい)が理想と考えるようになり、離婚を視野に入れ始めました。ガラシャは次女・たら(のちの稲葉一通の妻になり、またキリシタンとなって洗礼(せんれい=キリスト教で、信者となる時の儀式)名「タリーョ」をもらっています)受洗後、ガラシャは丹後に教会を建て、住民の「大改宗」を企てようと計画しました。この年、キリシタンであった高山右近(たかやま うこん、1552~1615=武将、大名。代表的なキリシタン大名)は追放されました。
以上所説あり。