細川ガラシャ(20/24)(1596年)

ここでは、1596年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1596年(慶長(けいちょう)元年)閏7月13日、畿内(きない=京都(きょうと)に近い国々。山城(やましろ=現在の京都府(きょうとふ)南部)・大和(やまと=現在の奈良県(ならけん))・河内(かわうち=現在の大阪府(おおさかふ)東部)・和泉(いづみ=現在の大阪府南西部(大和川(やまとがわ)以南))・摂津(せっつ=現在の大阪府北中部の大半と兵庫県(ひょうごけん)南東部)の5か国)で大地震(だいじしん)が起きました(慶長大地震)。子の刻に揺れ、地中から水が湧き出し、伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(ふしみく)内)の家々は倒壊(とうかい=建物などがたおれてつぶれること)し、死者はその数知らず(かずしらず=数えきれないほど多い)という惨状(さんじょう=いたいたしいありさま)を呈していました(をていしていました=でした)。また大仏殿の大仏は破裂(はれつ=激しく裂(さ)けて壊(こわ)れ)、伏見城(ふしみじょう=現在の京都府京都市伏見区桃山(ももやま)地区にあった城)も被害(ひがい=災害により受ける金銭・物質上の不利益や人の死傷)は大きく、大天守閣(てんしゅかく=城の中に建てられた遠くを見渡すための高層建築物)、門、矢倉(やぐら=城壁などの上に造った建物で、諸方(しょほう=あちこち)を展望(てんぼう=遠くの方まで見渡すこと)して偵察(ていさつ=敵の所在(しょざい=居どころ)や状況をひそかに探ること)したり、矢や弾丸を発射して防戦の用としたりしたもの)などが崩壊し(ほうかいし=つぶれ)し、上﨟女房(じょうろうにょうぼう=身分の高い女官)七十三人、下女(げじょ=身分の低い女)や番衆(ばんしゅ=※1)など五百人余りが圧死する(あっしする=押しつぶされて死ぬ)などして横死しました(おうししま=不慮の災難で死にました)。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、※2)・秀頼(ひでより、1597~1615=大名。太閤・秀吉の三男)は仮屋(かおく=一時的に作った家)を建てて凌ぎました(しのぎました=苦難を乗り越えました)。この間、真っ先に駆け付けたのが謹慎(きんしん=言葉や行ないをひかえめにすること)中の加藤清正(かとう きよまさ、※3)でした。このことで清正は秀吉から謹慎は解かれました。前田利家(まえだ としいえ、※4)も登城(とうじょう=城に参上(さんじょう))し謁見した(えっけん=貴人(きじん=身分や地位が高い人)や目上の人にお目にかかった)ところ、「傅(ふ=おもり役)」として秀頼を預けられました。その後伏見復興(ふっこう=一度衰えた(こわれた)ものが、再び盛んに、また整った状態になること)の資材(しざい=物を作るための材料)を前田家は領国(りょうごく=支配する国)から敦賀(つるが=現在の岐阜県敦賀市(ぎふけん つるがし))の商人・高嶋屋(たかしまや)を介して取り寄せ、いち早く復興に努めました。忠興(ただおき、※5)は、大阪の細川邸にいたガラシャを米田助右衛門(こめた すけえもん、※6)に任せ、忠興も伏見城に駆(か)けつけ復興に努めました。地震から四十余日後、9月1日、講和(こうわ=交戦国が合意のもとに戦争をやめ、平和を回復すること)のために招いていた明(みん=現在の中国)の使者と伏見城で会見( かいけん=特定の場所で公式に人と会うこと )しました。使者は勅書(ちゃくしょ)・金印(きんいん)のほかに「封王の冠服(ふうおうのかんふく)」などを秀吉に捧げ、これを受け取る役目・奏者(そうしゃ)の役として忠興が努めました。この大役(たいやく)を果たしたことにより、忠興は従三位(じゅさんみ=位階および神階における位のひとつ)参議(さんぎ=律令制のもとで設けられた朝廷の官職)に昇任(しょうにん=役が上になること)し「越中守(えっちゅうのかみ)」に任じられました。

※1 幕府(ばくふ=※1-1)・朝廷(ちょうてい=国を治める活動)などで、交替制(こうたいせい)で宿直(とのい=夜間、貴人の身近にあって守護する(しゅご=まもる)こと)・警衛(けいご=非常の事が起こらないように、警戒(けいかい=好ましくない事が起こらないように、注意し用心すること)して守ること)などの任(にん=まかせられた役目)にあたる者

※1-1 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)を長とする武士(ぶし=さむらい)政権(せいけん=※1-1-1)

※1-1-1 政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力

※2 1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)において天下を統一へ導いた三人(秀吉・織田信長(おだ のぶなが、※2-1)・徳川家康(とくがわ いえやす、※2-2)))の一人

※2-1 1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人。三英傑の一人

※2-2 1543~1616=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。江戸幕府(えどばくふ=※2-2-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑の一人

※2-2-1 家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん=※2-2-1-1)

※2-2-1-1 武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)

※3 1562~1611=武将、大名。肥後熊本藩(ひご くまもと はん=※3-1)初代藩主(はんしゅ=とのさま)。
※3-1 肥後国(ひごのくに=現在の熊本県(くまもとけん))で現在の天草市(あまくさし)・球磨郡(くまぐん)を除いた地域を領有し、熊本城を居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)とした藩(はん=※3-1-1)。
※3-1-1 諸侯(※3-1-1-1)が治める領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)、およびその統治(とうち=まとめおさめる)組織のこと
※3-1-1-1 江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)の大名

※4 1539~1599=武将、戦国大名。加賀(かが=現在の石川県(いしかわけん)南部)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人

※5 1563~1646=細川ガラシャの夫。武将、大名。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ほそかわけ)初代

※6 1558~1600=米田是政(こめた これまさ)。米田宗堅(こめた そうけん、※6-1)の子。父とともに細川幽斎につかえていた武士

※6-1 1526~1590=もとは将軍(しょうぐん=※6-1-1)足利義輝(あしかが よしてる、※6-1-2)につかえていました。永禄(えいろく)8年に義輝が松永久秀(まつなが ひさひで、※6-1-3)に殺されると、奈良に幽閉された(ゆうへいされた=ある場所に閉じこめられた)義輝の弟の一乗院覚慶(いちじょういん かくけい、※6-1-4)を細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、※6-1-5)とともにすくいだし、永禄11年織田信長の助力で将軍に擁立(ようりつ=支持し、もりたて、高い地位に就かせようとすること)。のち義昭と不和(ふわ=不仲)になり、幽斎の家臣(かしん=けらい)となった武士。米田是政(こめた これまさ、1558~1610)の父。

※6-1-1 武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。征夷大将軍。

※6-1-2 1536~1565=室町幕府(むろまちばくふ=※6-1-2-1)第13代征夷大将軍

※6-1-2-1 室町時代(むろまちじだい=足利(あしかが)将軍家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代)における日本の武家政権(ぶけせいけん=※6-1-2-1-1)。足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が京都で創始した。
※6-1-2-1-1 武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権

※6-1-3 1508~1577=松永弾正(まつなが だんじょう)。.武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん))の戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名(だいみょう=ある地域を支配している者))。

※6-1-4 1537~1597=足利義昭(あしかが よしあき)。室町幕府の第15代征夷大将軍

※6-1-5 1534~1610=細川藤孝(ほそかわ ふじたか)。武将、大名。詩人。

※6-1-6 1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(信長・豊臣秀吉(とよとみ、※6-1-6-1)・徳川家康(とくがわ いえやす、※6-1-6-2)))の一人

※6-1-6-1 1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人

※6-1-6-2 1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ=※6-1-6-2-1)の初代征夷大将軍。三英傑の一人

※6-1-6-2-1 家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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