ここでは、1582年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。
1582年(天正十年)明智光秀(あけち みつひで=~1582=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=だいみょう=ある地域を支配している者)。織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)を自刃させた(じじん=刀物で自分の生命を絶たせた)ひと(本能寺の変(ほんのうじのへん)=天正10年6月2日早朝、本能寺(ほんおうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺院)に滞在(たいざい=よそに行って、ある期間そこにとどまること)していた織田信長を家臣(かしん=けらい)・明智光秀が謀反(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こすこと)を起こして襲撃(しゅうげき=突然おそいかかること)した事件))から、使者が来て、「信長は、我(われ=私)に度々(たびたび=なんども)面目(めんぼく=世間からの評価)を失わせ、我儘(わがまま=身勝手)の振る舞い(ふるまい=行動)があったので父子共に討ち亡ぼし(うちほろぼし=ほろぼし)積鬱(せきつう=苦しくつらい気持が積もり重なること)の散じました(さんじました=気をはらしたい)ので、すぐに上洛して(じょうらくして=京都で)今後の計略をしたい(けいりゃくをしたい=目的が達せられるように前もって考えておきたい)、摂津(せっつ=現在の大阪府(おおさかふ)北中部の大半、兵庫県(ひょうごけん)南東部)は闕国(けっこく=領主(りょうしゅ=領国(りょうごく=支配する国)を支配している人)が欠けている国)なので先ず(まず=とにかく)知行されたい(ちぎょう=自分のものとしてもつ土地にしたい)」という謀反の誘いでした。細川忠興(ほそかわ ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将、大名。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)は信長をしたっていたことから激怒し、義絶する(ぎぜつする=縁を切る)と返信(へんしん=返事の手紙)を使者に渡しました。こうして、細川家は、明智家と主従(しゅじゅう=主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)と家来)共に同調(どうちょう=意見や態度に賛成、同じ行動を)しないことを決意しました。一方、同様に誘われた一色義定(いっしき よしさだ、~1582=武将。丹後国(たんごのくに=現在の京都府北部)守護(しゅご=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人))と矢野光長(やの みつなが、?~?)は光秀に加担し(かたんし=仲間になり)ました。6月1日、亀岡城(かめおかじょう=亀山城(かめやまじょう)。現在の京都府亀岡市荒塚町(かめおかし あらつかちょう)にあった城)で光秀と光春(みつはる、1536~1582=明智秀満(あけち ひでみつ)。武将。明智光秀の長女の夫)が重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)たちと信長を殺すための談合(だんごう=話し合い)をし、6月2日、光春が先鋒(せんぽう=軍隊の一番先に立って進むもの)となり、明智軍が、本能寺にいた織田信長を弑逆(しんぎゃくする=殺す)という事件が起こりました(本能寺の変)。6月3日、毛利(もうり)方の備中高松城(びっちゅう たかまつじょう=現在の岡山県岡山市北区高松(おかやまけん おかやまし たかまつ)にあった城)を攻(せ)めていた羽柴秀吉(はしば ひでよし、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)と黒田勘兵衛(くろだ かんべえ、1546~1604=黒田孝高(くろだ よしたか)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者))に信長の訃報(ふほう=死亡のしらせ)が入り、急遽(きゅうきょ)、毛利(もうり)氏と仲直りし、たった6日間で京都へ戻りました。光秀は淀川(よどがわ=大阪府北部の川)と天王山(てんのうざん=京都府南部、乙訓郡大山崎町(おとくにぐん おおやまざきちょう)にある山)をはさんだ、山崎(やまざき=現在の大阪府三島郡島本町山崎(みしまぐん しまもとちょう やまざき)、京都府乙訓郡大山崎町)で待ちかまえました。豊臣軍は天王山を占領し(せんりょうし=他国の領土を武力によって自国の支配下に置き)、陣をかまえました(じんをかまえました=軍隊を集結するところにしました)。円明寺川(えんみょうじがわ=現在の京都府長岡京市(ながおかきょうし)・乙訓郡大山崎町を流れる小泉川(こいずみがわ))をはさんで陣をかまえていた明智軍から攻撃をしかけました。しかし側面から豊臣軍がおそいかかってこられ、さらに正面から高山右近(たかやま うこん、1552~1615=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。代表的なキリシタン大名(きりしたんだいみょう=キリスト教に入信、洗礼を受けた大名))らが突撃(とつげき)され、明智軍は総崩れ(そうくずれ)となりました。光春は先鋒(せんぽう=戦闘(せんとう)のとき、部隊の先頭に立って進むもの)として活躍(かつやく)はしましたが、光秀は、戦場から逃げ、途中、山科・勧修寺(やましな・かじゅうじ=現在の京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町(やましなく かんしゅうじにおうどうちょう)にある寺社)の藪(やぶ=草木が多く生えた所)で自刃(じじん=刀物で自分の生命を絶つこと)または地侍(じざむらい=村に住む侍)に殺されてしまいました。光春は父の死を知ると一千騎を率いて坂本城(さかもとじょう=現在の滋賀県大津市下阪本(しがけん おおつし しもさかもと)にあった城)に向いました。大津(おおつ=現在の滋賀県大津市)で秀吉軍の堀秀政(ほり ひでまさ、1553~1590=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者))と戦い、三百ほど討たれ(うたれ=殺され)、小舟(こぶね)で坂本城に入り、妻と光秀の内室(ないしつ=身分の高い人の妻)・子息(しそく=男の子供)を殺し、自分も自殺(じさつ)しました。光春46歳、光秀57歳でした。忠興は本能寺の変後、、一色、矢野の城を攻めました。主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)・信長を弑逆した(しいぎゃく=自分の仕えている君主を殺した)謀反(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こした)人・光秀の娘という烙印(らくいん=汚名(おめい=悪いうわさ)を着せる)を押され(らくいんをおされ=汚名を着され)たガラシャは忠興と離婚をし、男家臣(かしん=けらい)と小侍従(こじじゅう=女流歌人(じょりゅうかじん=和歌(日本の歌)または短歌(和歌(わか=日本の歌)の一つの形式。五七五七七の五句、三十一音を基準とする)を詠む女性の人))という侍女(じじょ=身分の高い人に仕え、身の回りの世話をする女)二人を付けて丹波(たんば=現在の京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の山中の三戸野(みどの=味土野(みどの)。現在の京都府京丹後市)に幽閉(ゆうへい=ある場所に閉じこめて外に出さないこと)され、4歳の長(おちょう)と3歳の忠隆(ただたか、1580~1646)と別れることになりました。6月18日、清洲(きよす=現在の愛知県清須市一場(あいちけんきよすしいちば))で信長の後継者を決定するため、秀吉、織田信雄(おだ のぶかつ、1558~1630=武将。大名)、織田信孝(おだ のぶたか、1558~1583=武将。大名)、柴田(しばた)、池田(いけだ)、丹羽(にわ)で会議を開き、秀吉が押していた信長の嫡男・信忠(のぶただ=武将。大名)の子、三法師(さんほうし=秀信(ひでのぶ、1580~1605)に決まりました。細川藤孝(ほそかわ ふじたか、1534~1610=武将。大名。歌人)は剃髪し幽斎(ゆうさい)と改名し、舞鶴(まいづる=現在の京都府舞鶴市)に田辺城(たなべじょう)を築き、細川家当主は忠興となり、秀吉から丹後国を与えられました。8月、忠興は上洛し(じょうらく=京都行き)、秀吉に対面し同調しました。秀吉から丹後での不穏な(ふおんな=おだやかでない)動きを聞き、急いで帰国して、9月8日、光秀に加担していた一色義定を、宮津城(みやつじょう=現在の京都府宮津市にある城)での饗応(きょうおう=酒や食事などを出してもてなすこと)に招き、謀殺し(ぼうさつし=計画的に人を殺し)ました。丹後を平定(へいてい=世の中が平和になること)したことで、秀吉配下ではあるが、忠興は、丹後国主となりました。10月、忠興の側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)・お藤(おふじ)が、おほこ(おほこ、1582~=1582~1661=武将。細川氏の家老(かろう=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))の家臣(かしん=けらい)団の中で、最高の地位))を産みました。
以上所説あり。