
石田三成(いしだ みつなり)は、合戦っで戦うことが苦手でした。武器や食料の用意が得意であったため、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から認められた。秀吉が亡くなると、多くの武将が三成から離れていき、最後には家康により処刑された。
ここでは、三成が生誕してから、九戸政実(くのへ まさざね)の叛乱(はんらん)により相馬口(そうま くち)の軍監として再び陸奥(むつ)に入るまでを勉強します。
1560年(永禄(えいろく)三年)石田三成は、近江坂田郡石田村(おうみ さかたぐん いしだむら=現在の岐阜県の一部)で生まれました。
1574年(天正(てんしょう)二年)豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が長浜城(ながはま じょう=現在の滋賀県長浜市公園町にある城)主となる頃、三成は秀吉に見出(みいだ)されました。
1583年(天正十一年)三月、秀吉の北国(ほっこく=現在の新潟県、富山県、石川県、福井県)征伐(せいばつ=反乱をおこした勢力を鎮圧)に従いました。この頃、水口城(みなくち じょう=現在の滋賀県甲賀市水口町水口にあった城)主に封ぜられました(任命れました)。
1584年(天正十二年)十一月、近江今在家村(おうみ いまざいけ むら=現在の滋賀県)の検地(けんち=土地調査)に参加しました。
1585年(天正十三年)七月、従五位下(じゅごいげ=位階の一。従五位上の下、正六位上の上)治部少輔(じぶしょうゆう=役所名、職階名)に任(にん)ぜられ、ついで奉行に抜擢(ばってき)されました。
1586年(天正十四年)境(現在の大阪府南部)の奉行を兼(か)ねるようになり、大徳寺(だいとくじ=現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町にあるお寺)の境内(けいだい)に三玄院(さんげんいん)を建てました。
1587年(天正十五年)三月、島津(しまず)征伐(せいばつ=反乱をおこした勢力を鎮圧)に従って、九州に向かいました。六月、博多の町の再興(さいこう=もう一度、盛り返すこと)にたずさわりました。
1588年(天正十六年)境(現在の大阪府南部)の奉行をやめました。
1589年(天正十七年)美濃国(みののくに=現在の岐阜県南部)の検地(けんち=土地調査)を行いました。
1590年(天正十八年)二月、小田原(おだわら=現在の神奈川県西部)征伐(せいばつ=反乱をおこした勢力を鎮圧)に従い東に向かいました。五月、舘林城(たてばやし じょう=現在の群馬県館林市城町にある城)を攻略しました。
七月、忍城(おし じょう=現在の埼玉県行田市)を攻略しました。八月、陸奥地方(むつ ちほう=現在の福島・宮城・岩手・青森4県と秋田県の一部にほぼ相当する地域)の検地(けんち=土地調査)を行いました。
江北蔵入地(ごうほく くらいりち=領主の直轄領)の代官(だいかん=大名のもとで地方役人として実務に当たった者)となりました。
1591年(天正十九年)一月、旧大崎・葛西領(きゅう おおさき かさい りょう=現在の宮城県北部~岩手県南部)の一揆(いっき=幕府などに反抗して、地侍・農民・信徒らが団結して起こした暴動)により、三成は相馬(そうま=現在の福島県北東部の市)に向いました。
六月、九戸政実(くのへ まさざね)の叛乱(はんらん)により相馬口(そうま くち)の軍監として再び陸奥(むつ)に入る。
以上諸説あり。