真田昌幸(1)(1547年)

 真田昌幸(さなだ まさゆき)は、武田信玄(たけだ しんげん※1)に仕える真田家の子として生まれました。頭が良く、信玄からその才能を愛され、「わしの眼のようだ」とたたえられました。1573年に信玄が病死し、後を継いだ武田勝頼(たけだ かつより※2)が織田信長(おだ のぶなが※3)に負け、家臣(かしん=けらい)に裏切られ、武田家が滅(ほろ)ぼされると、昌幸は徳川家康(とくがわ いえやす※4)と手を結びました。しかし家康は、昌幸の領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)だった沼田(むまた=現在の群馬県(ぐんまけん))を北条氏(ほうじょう し※5)に渡すように命じてきました。昌幸はこれを断(ことわ)り、家康と手を切りました。1585年、怒った家康が、昌幸の上田城(うえだ じょう=現在の長野県(ながのけん))に大軍を送りましたが、昌幸は数々の罠(わな)をしかけて、徳川軍を撃退(げきたい)しました(第一次上田合戦)。昌幸は、この上田合戦の最中(さなか)、甲冑(かっちゅう=頭を守るにかぶと、胴を守るよろいからなる防具(ぼうぐ=攻撃から身を守る道具))こを着ることもなく、家臣と碁(ご=ごもくならべ)を楽しんでいたといわれています。関ヶ原(せきがはら=現在の岐阜県不破郡関ヶ原町(ぎふけん ふはぐん せきがはらちょう))の戦いのときは、次男・真田幸村(さなだ ゆきむら※6)とともに石田軍(いしだ ぐん=西軍)に味方し、関ケ原に向かう徳川秀忠(とくがわ ひでただ※7)軍を迎え討ち(むかえうち)ました(第二次上田合戦)。この戦いにも大勝利しましたが、関ケ原で西軍が敗れたため、昌幸は幸村とともに九度山(くどやま=現在の和歌山県(わかやまけん))に追放され、のちに病死しました。

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※1 たけだ しんげん、1521~1573=甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の守護大名(しゅご だいみょう※1-1)・戦国大名(せんごく だいみょう※1-2)。甲斐源氏(かい げんじ(清和源氏家系図参照)の嫡流(ちゃくりゅう=正統(せいとう)の血筋(ちすじ)))にあたる甲斐武田家第19代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)
※1-1 しゅご だいみょう=室町時代(むろまち じだい※1-1-1)の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人
※1-1-1 むろまち じだい=足利(あしかが)将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん※1-1-1-1))家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代。
※1-1-1-1 せいいたいしょうぐん=武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。
※1-2 せんごく だいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名


※2 たけだ かつより、1546~1582=甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の戦国大名。甲斐源氏にあたる甲斐武田家第20代当主。


※3 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・戦国大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(信長・豊臣秀吉(とよとみ、※3-1)・徳川家康(とくがわ いえやす、※4)))の一人
※3-1 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人

※4 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ※4-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑の一人
※4-1 えど ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん=※4-1-1)
※4-1-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)


※5 ほうじょう し=関東(かんとう)の戦国大名の氏族(しぞく=祖先を同じくするという認識のもとに構成される血縁集団)。本姓は平氏(たいらうじ※5-1)。家系は武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))の桓武平氏伊勢氏流(葛原親王(かずらわらしんのう)三男・高見王(たかみおう)の子・高望王(たかもちおう)の長男・平国香(たいらのくにか)の孫・平維衡(たいらのこれひら)の子孫(桓武天皇家系図参照))。鎌倉幕府(かまくらばくふ※5-2)の執権(しっけん※5-3)をつとめた北条氏の後裔(こうえい=子孫)ではないことにより後北条氏(ごほうじょうし)とも呼ぶ。また居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)のあった相模国小田原(さがみのくに おだわら=現在の神奈川県(かながわけん)小田原市)の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし)あるいは相模北条氏(さがみ ほうじょうし)とも呼ばれる
※5-1 たいらうじ=皇族(こうぞく=天皇皇后(てんのう・こうごう)の血族とその妻、ただし既婚の女子は除く)が臣下(しんか=君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)に下る際に名乗る氏(うじ=みょうじ)の一つ。50代桓武(かんむ)天皇の子・葛原親王(かずらわらしんのう)、万多親王(まんだしんのう)、仲野親王(なかのしんのう)及び賀陽親王(かやしんのう)が祖。
※5-2 かまくらばくふ=鎌倉時代(かまくら じだい=1192年頃~1333年で幕府が鎌倉(かまくら=現在の神奈川県鎌倉市(かながわけん かまくらし))に置かれていた時代)の日本の武家政権(ぶけせいけん※5-2-1)。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)・源頼朝(みなもとのよりとも※5-2-2)が創始し、北条時政(ほうじょう ときまさ※5-2-3)・北条義時(ほうじょう よしとき※5-2-4)らを中心とした坂東武士(ばんどう ぶし※5-2-5)が鎌倉に設立した幕府。
※5-2-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)
※5-2-2 みなもとのよりとも、1147~1199=平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家(せいじか=職業として政治(せいじ=国を治める活動)に携(たずさ)わっているひと)。鎌倉幕府を開いた初代征夷大将軍
※5-2-3 ほうじょう ときまさ、1138~1215=平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。源頼朝の正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権(しっけん= 鎌倉幕府の政所(まんどころ)の長官。将軍を補佐し政務を統轄した最高の職)
※5-2-4 ほうじょう よしとき、1163~1224=平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の第2代執権。時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗(とくそう=北条氏の嫡流(ちゃくりゅう=正統(せいとう)の血筋(ちすじ)))家2代目当主(とうしゅ=その家の現在の主人)
※5-2-5 ばんどう ぶし=現在の関東1都6県とほとんど同じ地域で活躍した武士たち。
※5-3 しっけん=鎌倉幕府の政所(まんどころ=政治(せいじ※5-3-1)上のさまざまな仕事)の長官(かみ※5-3-2)。将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号))を補佐(ほさ=人をたすけて、その務(つと)めをはたさせること)し政務(せいむ=政治(せいじ=国を治める活動)上の事務(じむ=書類の作成など、主として机の上で行う仕事))を統轄(とうかつ=幾(いく)つか別々になっているものを、調整して一つにまとめること)した最高の職
※5-3-1 せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること
※5-3-2 かみ=律令制(りつりょうせい※5-3-2-1)で、四等官(しとうかん=長官・二等官・三等官・四等官の4等級から構成されており、令において、それぞれの分掌(ぶんしょう=仕事・事務を手分けして受け持つこと)事務が定められている)の最上の官位
※5-3-2-1 りつりょうせい=律令(りつりょう※5-3-2-1-1)を基本法とする政治制度
※5-3-2-1-1 りつりょう=奈良時代(ならじだい=平城京(へいじょうきょう=現在の奈良県奈良市)に都(みやこ)が置かれた時代)・平安時代の法律

※6 さなだ ゆきむら、1567~1570=真田信繁(のぶしげ)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。父は真田昌幸(まさゆき)


※7 とくがわ ひでただ1579~1632=徳川家康の三男。武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍
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 ここでは、真田昌幸が生まれた1547年を勉強します。

 1547年(天文(てんぶん)十六年) 信濃国小県郡真田郷(しなののくに ちいさがたごおり さなだごう=現在の長野県上田市真田地区(ながのけん うえだし さなだ ちく))の領主(りょうしゅ=領国(りょうごく=支配する国)を支配している人)・真田幸隆(さなだ ゆきたか※8)の三男として生まれました。母は小県郡の有力国人(ゆうりょく こくじん=その地方に土着して(どちゃく=その地に昔から住みついて)いて、勢力(せいりょく)や威力(いりょく)のある武士(ぶし=さむらい))であった海野氏(うんのし)の家臣・河原隆正(かわら たかまさ※9)の妹で、幼名(ようみょう=おさない時の名)は源五郎(げんごろう)でした。この頃、父は甲斐国(かいのくに=現在の山梨県(やまなし けん))守護・武田信玄に仕(つか)えていました。

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※8 さなだ ゆきたか、1513~1574=真田幸綱(ゆきつな)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)


※9 かわら たかまさ、?~?=武士(ぶし=さむらい)。真田氏(さなだ し)の家臣(かしん=けらい)
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以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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