真田幸村(1/6)(1570年)

 真田幸村(さなだ ゆきむら)は、上田城(うえだ じょう=現在の長野県上田市二の丸(ながのけん うえだし にのまる)にあっと城)主・真田昌幸(さなだ まさゆき)の次男として生まれました。本名(ほんみょう=本当の名)は信繁(のぶしげ)といいます。1582年、幸村が16歳のとき、昌幸ら300人の真田軍が上田城に引き返している途中(とちゅう)、敵(てき)の北条軍(ほうじょうぐん)、約4万人に出くわしたことがありました。幸村は、北条方の武将(ぶしょう=武士の大将。また、武道にすぐれた将軍)の軍旗(ぐんき=戦場で、主将の所在を示す旗)を兵にもたせ、夜中におそいかかる作戦(さくせん)を提案(ていあん=議案・考えなどを出すこと)しました。北条軍は、突然(とつぜん=いきなり)の攻撃(こうげき=進んで敵をせめること)に「裏切り(うらぎり)か」と思い大混乱(だいこんらん=大きな混乱)し、そのすきに真田軍は北条軍を突破(とっぱ= 突き破ること)して、無事に帰ることができました。喜んだ昌幸は、幸村に真田家の家紋(かもん=日本固有の紋章(氏族・家・国・団体などのしるしとして用いる一定の図柄)である)「六連銭(ろくれんせん=6つの小銭が並んだデザイン)」の軍旗をもつことを許しました。1585年、徳川家康(とくがわ いえやす)が7000人の大軍を上田城に送りこんできたが、昌幸はわずか2000人の兵で打ち破(やぶ)りました。この第一次上田合戦(うえだかっせん)のとき、幸村は上杉氏(うえすぎ し)の人質(ひとじち)になっていたので活躍(かつやく=めざましく活動すること)できなかったが、以後も、合戦で天才的(てんさいてき)な戦いをする昌幸のもとで、合戦での戦い方を学んでいました。その後、昌幸は豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に従(したが)ったため、幸村は秀吉のもとに人質として差し出され、家臣(かしん=けらい)として仕える(つかえる=目上の人のそばにいて、その人につつしんでつかえる)ことになりました。秀吉が北条氏の小田原城(おだわら じょう=現在神奈川県小田原市(かながわけん おだわらし)にあった)を攻(せ)めたときは、昌幸とともに豊臣軍として戦いました。秀吉の死後、家康が天下(てんか=将軍のこと)をねらって関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい=現在の岐阜県不破郡関ヶ原町(ぎふけん ふわぐん せきがはらちょう)を中心に日本の全国各地で戦闘が行われた戦い)を起こしたときは、幸村は、昌幸とともに石田軍(いしだぐん)(西軍)につきました。昌幸は、どちらが勝っても真田家が生き残れるように、長男・信之(のぶゆき)には徳川家の味方にさせました。幸村と昌幸は、関ヶ原に向かう徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の3万8000人の大軍を、わずか3500人の兵で迎え撃ち(むかえうち)、勝利しました(第二次上田合戦)。しかし、関ヶ原で石田軍が敗れたため、幸村は昌幸とともに処刑(しょけい)されることになりましたが、信之が家康に頼(たの)んだおかげで命はたすけられました。しかし、九度山(くどやま=現在の和歌山県北部(わかやまけん ほくぶ))に追放(ついほう=追い出すこと)され、その後、昌幸は九度山で病死してしまいました。1614年、徳川家康と豊臣家が対立し、大坂冬の陣(おおさかふゆのじん=江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家(はしばそうけ))との間で行われた合戦)が起こりました。幸村は豊臣軍として大坂城(おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城(おおさかふ おおさかし ちゅうおうく おおさかじょう)にあった城)に入ると、城の南側を弱点と見抜き(みぬき)、そこに「真田丸(さなだまる)」という小さな城を築きました(きずきました=城や砦(とりで)をつくりました)。幸村は徳川軍を真田丸におびきよせ、間近に迫(せま)ったことろで、いっせいに鉄砲(てっぽう)で攻撃(こうげき)して勝利しました。徳川軍の戦死者(せんししゃ=戦いでなくなったもの)の8割は、幸村の攻撃によるものでした。しかし、家康と豊臣家が仲直り(なかなおり)したため、真田丸はこわされてしまいました。その後、幸村は家康から、「信濃(しなの=現在の長野県)をあたえるので、徳川軍の味方にならないか」とさそわれたが、忠誠心(ちゅうせいしん=まごころをこめて誓う気持ち)の強い幸村は、あっさり断(ことわ)りました。翌年、家康はふたたび大坂城をせめることを決意(けつい=)し、15万人の大軍で大坂城を囲みました(大坂夏の陣(おおさかなつのじん=江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦))。戦っても勝ち目のないと判断(はんだん)した幸村は「ねらうのは、家康の首のみ!」と叫(さけ)んで、家康の本陣(ほんじん=陣営(戦場で軍勢が集結して待機している所)で、総大将がいる場所)をめがけて突撃(とつげき=はげしく突き進んで攻撃を加えること)しました。突撃は3回にもおよびました。あまりにもすさまじい攻撃に、家康は切腹(せっぷく=自分で腹を切って死ぬこと)を覚悟(かくご=危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること)し、家臣の中には家康を置いて逃げ出した者までいたといいます。しかし、圧倒的(あっとうてき)に多い徳川軍にじゃまをされ、あと一歩(いっぽ)のところで、家康をうち取ることができませんでした。けがをした幸村は神社で休んでいるところをうち取られてしまい、翌日、大坂城は落城(らくじょう=敵に城を攻め落とされること)したが、幸村は家康軍から「日本一の兵(つわもの=勇気のある強い人)」とたたえられ、家康も幸村をほめることを許(ゆる)しました。

ここでは、真田幸村(さなだ ゆきむら)が生まれた1570年を勉強します。

1570年(永禄(えいろく)十三年)真田幸村(正しくは信繁(のぶしげ))、信濃(しなの=現在の長野県)上田城(うえだ じょう)主・昌幸(まさゆき)の次男として生まれました(母は公卿(くぎょう)・菊亭晴季(くてい はるすえ)の娘であるといわれています)。幼名(ようみょう)は弁丸(べんまる)でした。

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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