真田幸村(5/6)(1602年~1614年)

ここでは、1602年~1614年までに、真田幸村(さなだ ゆきむら)が、たずさわったことを勉強します。

1602年(慶長(けいちょう)七年)幸村に、長男・大輔(だいすけ)が生まれました。

1603年(慶長八年)2月12日、家康(いえやす)、右大臣(うだいじん=律令制(りつりょうせい=律令(東アジアでみられる法体系のこと。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法など))に基づく制度のこと)で、太政大臣(だじょうだいじん)、左大臣(さだいじん)の次に位)ののち征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=政権(せいけん=政府)のトップの称号(しょうごう=呼び名))に任(にん)ぜられました(地位、または職務につかせました)(江戸幕府(えどばくふ)の創立(そうりつ=組織や機関を初めてつくること))。

1605年(慶長十年)5月、家康による豊臣秀頼(とよとみ ひでより)の上洛(じょうらく=京都に行くこと)要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)を豊臣家(とよとみけ)が拒否(きょひ=こばみ、ことわること)しました。

1611年(慶長十六年)6月4日、昌幸(まさゆき)がなくなりました。享年65歳でした。

1612年(慶長十七年)次男・大八(だいはち)が生まれました。

1614年(慶長十九年)7月、方広寺鐘銘事件(ほうこうじ しょうめい じけん=徳川家康が豊臣氏滅亡(めつぼう=ほろびること)をはかり挑発(ちょうはつ=相手をおこらせるためのおこない)した事件)が起きました。10月1日、豊臣家では合議(ごうぎ=集まって相談すること)の末、会戦(かいせん=大規模(だいきぼ)な陸上戦(りくじょうせん))を決定し、その準備を開始しました。同月9日、幸村、大坂(おおさか=現在の大阪府大阪市(おおさかふ おおさかし))の豊臣秀頼の招(まね)きに応じて、九度山(くどやま=現在の和歌山県伊都郡九度山町九度山(わかやまけん いとぐん くどやまちょう くどやま))を降り、手勢(てぜい=手下の兵)を率いて大坂に向いました。同月11日、家康、駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区(しずおかけん しずおかし あおいく))を出立(しゅったつ=旅に出発すること)しました。同月下旬、幸村は大坂城(おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城にある城)平野口の南に「真田丸(さなだまる)」と呼ばれる城塁(じょうるい=城)を築城(ちくじょう=城を築くこと)しました。同月23日、家康が二条城(にじょうじょう=現在の京都府京都市中京区二条城(なかきょうくに じょうじょう)にある城)に入りました。12月12日、幸村、大坂城の軍議(ぐんぎ=軍事についての相談)で奇襲作戦(きしゅうさくせん=敵の不意(ふい=突然)を突いて攻撃を仕掛ける方法)を提案(ていあん=考えを提出すること)、退けられました(しりぞけられました=相手の要求などを受け入れないこと)。同月4日、徳川軍の前田利常(まえだ としつね)・松平忠直(まつだいら ただなお)・井伊直孝(いい なおたか)らが真田丸を攻めるが、幸村はこれを撃退(げきたい= 敵を攻撃して追いはらうこと)しました。同月15日、豊臣方の城将(じょうしょう=城を守る大将)・大野治長(おおの はるなが)および織田有楽斎(おだ うらくさい)から講和条件(こうわじょうけん=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復することの約束ごとや契約などの項目)が提示(ていじ=差し出して見せること)されました。同月20日、徳川方と豊臣方の和議(わぎ=仲直りの相談)が成立しました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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