真田幸村(4/6)(1600年)

ここでは、1600年に、真田幸村(さなだ ゆきむら)が、たずさわったことを勉強します。

1600年(慶長五年)6月、家康(いえやす)の上杉(うえすぎ)征討(せいとう=兵を出して、そむく者や逆らう者をせめうつこと)に応じて、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)軍に随行(ずいこう=地位の高い人や目上の人のともにつくこと)して伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区)を出発しました。7月21日、石田三成(いしだ みつなり)の挙兵(きょへい=兵を集めて戦いを起こすこと)を告げる密書(みつしょ=秘密の手紙)が陣中(じんちゅう=陣地(じんち)の中)に届(とど)きました。父子(ふし=父と子)は相談して、昌幸(まさゆき=父)と幸村が三成方(がた)の西軍(せいぐん)へ、信幸(のぶゆき=兄)が家康方の東軍(とうぐん)へ味方(みかた)することを決断しました。9月6日、上田城攻防戦(こうぼうせん=現在の長野県上田市(ながのけん うえだし)付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦い)にて、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)軍三万八千の足止め(あしどめ=外出や通行を禁止すること)に成功しました(第二次上田合戦)。同月15日、東軍の勝利で終わりました(関ヶ原の合戦(せきがはらのかっせん))。11月11日、三成、大坂(おおさか=現在の大阪府)・京都(きょうと=現在の京都府)の市中引き回し(しちゅうひきまわし=死刑囚(しけいしゅう)の罪状(ざいじょう=犯罪の内容)を書いた捨札(すてふだ=街角に罪人の氏名・年齢・罪状などを記して高くかかげた板の札)をたてたうえ、刑場まで公開で連行していく制度)のうえ、京都六条河原(きょうと ろくじょうがわら=現在の現在の京都市内を流れる鴨川の河原に存在した形場(けいじょう=死刑場))において処刑(しょけい=死刑を行うこと)されました。享年四十一歳でした。12月13日、昌幸と幸村は蟄居(ちっきょ=武士などに科した刑の一つ。閉門(へいもん=門や窓をかたく閉じ、出入りを禁じること)を命じた上、さらに一室に謹慎(きんしん=住む所を定め、入り口を閉鎖(へいさ=とじること)し、自由な行動を許さないこと)させること)を命じられ、高野山(こうやさん=現在の和歌山県北部(わかやまけん ほくぶ)、和歌山県伊都郡高野町(わかやまけん いとぐん たかやまちょう)にある山)へ移りました。のち、高野山の麓(ふもと=山の下の方の部分)にある九度山(くどやま=現在の和歌山県伊都郡九度山町九度山(わかやまけん いとぐん くどやまちょう くどやま))へ移りました。信幸、父との決別(けつべつ=きっぱりと別れること)のために、名前を信之(のぶゆき)とあらためました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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