ここでは、1589年~1598年までに、真田幸村(さなだ ゆきむら)が、たずさわったことを勉強します。
1589年(天正(てんしょう)十七年)幸村の兄である信幸(のぶゆき=のちの信之(のぶゆき))、徳川家康に仕(つ)え、徳川家の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)・本多忠勝(ほんだ ただかつ)の娘である小松姫(こまつひめ)を娶りました(めとりました=妻としてむかえました)。
1590年(天正十八年)幸村、父や兄とともに、北条(ほうじょう)征討軍(せいとう ぐん=反逆(はんぎゃく)する者や服属(ふくぞく=服従して下につくこと)しない者をせめうつための軍)に参加し、初陣を飾りました(ういじんをかざりました=初めての戦いに勝利しました)。
1591年(天正十九年)11月4日、高野山(こうやさん=和歌山県(わかやま けん)北部(ほくぶ)、和歌山県伊都郡高野町(わかやまけん いとぐん こうやちょう)にある山)に追放(ついほう=追いはらうこと)された北条氏直(ほうじょう うじなお)が亡(な)くなりました。享年三十歳でした。
1592年(天正二十年)秀吉(ひでよし)の朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のこと)出兵(しゅっぺい=兵を出すこと)の応援(おうえん=力をかして助けること)のため、肥前(現在の佐賀県(さが けん)と壱岐(いき)・対馬(つしま)をのぞく長崎県(ながさき けん)のこと)の名護屋(なごや)に真田父子(さなだ ふし=真田家の父子(父=昌幸、子=信幸、幸村)が向かいました。
1593年(文禄(ぶんろく)二年)8月、信濃(しなの=現在の長野県(ながの けん))に帰国しました。幸村、従五位下(じゅごいのげ=位階(いかい=長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典(えいてん=勲章(くんしょう))の一)の一。従五位上の下、正六位上の上。)左衛門佐(さえもんのすけ=号(ごう=本名とは別に使用する名称))に命じられ、秀吉から「豊臣(とよとみ)」の姓を与えられました。
1598年(慶長(けいちょう)三年)8月18日、秀吉、伏見城(ふしみ じょう=現在の京都府京都市伏見区桃山地区(きょうとふ きょうとし ふしみく ももやまちく)にあった城)で病死しました。享年六十二歳でした。
以上諸説あり。