ここでは、1612年~1613年までに、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。
1612年(慶長(けいちょう)十七年)1月、景勝(かげかつ)、養父(ようふ=養子縁組による父親のこと)謙信(けんしん)の祠堂(しどう=祖先の霊を祭る所)を新築しようと計画しました。兼続、平林正恒(ひらばやし まさつね)に監督(かんとく=物事を取り締まること)を命じました。1月、兼続、禁中普請料知行割り(きんちゅう ふしんりょう ちぎょうわり)を平林正恒に命じて幕府(ばくふ=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を長とする武家の政権)に納めさせました。2月、兼続、3月13日の謙信法会について倉賀野長左衛門(くらがの ちょうざえもん)が、西方次郎左衛門(にしかた じろう ざえもん)・広井善右衛門(ひろい ぜんえもん)・三俣九兵衛(みつまた きゅうべえ)・平林正恒に指示しました。2月、兼続、一乗院(いちじょういん=現在の和歌山県高野町高野山にある寺院)の僧(そう=お坊さん)から証類本草(しょうるい ほんぞう=中国の本草書)一部を贈られたことで答謝(礼を言う)しました。2月、兼続は、本多(ほんだ)安房守(あわのかみ=現在の千葉県南部)に礼をのべました。3月、兼続、平田(ひらた)隠岐守(おきのかみ=現在の本州以外の島根県)に十四カ条の覚書(おぼえがき=武具注文(ずかん ちゅうもん)、他国(たこく)への軍役準備(ぐんえき じゅんび=戦争準備)、人材登用(才能があり、役に立つ人物を官職などにとりたてて用いること))を与えました。5月、本多安房守の妻阿虎(大国実頼(おおくに さねより)の娘)、加賀(かが=現在の石川県南部)に赴(おもむ)きました。6月、兼続、大善院入峯役銭(だいぜんいん にゅうぶ やくせん=大峯山に登り修行し、大工・桶屋(おけや)・石屋(いしや)・鳶職(とびしょく)など、主に商工業者に課せられた雑税)として光明院(こうみょういん)へ大判(16世紀以降の日本において生産された延金(のしきん=薄く広げた金塊)の内、楕円形で大型のもの)一枚を贈(おく)りました(感謝や祝福などの気持ちを込めて、人に金品などを与えること)。9月、兼続、新渡(しんと=新しく外国から渡来したこと)の「万用不求人」の一部贈与(ぞうよ=自己の財産を無償で相手方に与えること)に対する謝状(しゃじょう=お礼の手紙)を戸田左衛(とだ さえ)へ送りました。10月、謙信祠堂(けんしん しどう)が完成し、霊柩(れいきゅう=遺体を納めたひつぎ)を安置(あんち=遺体などを、大切にすえ置くこと)し、守護(しゅご=守ること)の制(せい=おきて)を定めました。
1613年(慶長十八年)8月、景勝(かげかつ)、人見宗次(ひとみ むねつぐ)に命じて、城北白子明神社(じょうほく しろこじんじゃ=現在の山形県米沢市城北(やまがたけん よねざわし じょうほく)にある神社)の東に馬場(ばば=乗馬を行うための土地)を新築することにしました。兼続以下家臣(かしん=けらい)は、その仕事に従事(じゅうじ=その仕事に携わること)しました。11月、馬術稽古(ばじゅつ けいこ=ばじゅつを繰り返しよく習うこと)に関する掟(おきて=人々が守らなければならない決まり)を定めました。
以上諸説あり。