ここでは、1610年~1611年までに、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。
1610年(慶長(けいちょう)十五年)閏2月、家康(いえやす)、信濃松代城(しなのまつしろじょう=現在の長野県長野市松代町にあった城)主・松平忠輝(まつだいら ただてる)を福島城(ふくしまじょう=新潟県上越市港町にあった城)主に任命しました。12月、将軍秀忠(ひでただ)が、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の桜田新殿(さくらだ しんでん=現在の東京都)を訪問し、兼続に銀子(ぎんす=銀の貨幣)五十枚、時服(じふく=四季の時候に合わせて着る衣服)五領(りょう=衣服の助数詞)を与えられました。同月、兼続が、景勝の命令で本多正信(ほんだ まさのぶ)に一腰(ひとこし=一振り(刀1本)の腰の刀)、時服三十領、銀子五百枚、正信正室(正式な妻のこと)へ綿子(わたこ=真綿で製した防寒衣)三百把(は=綿子の助数詞)、銀子三百枚を贈りました。
1611年(慶長十六年)3月、後陽成天皇、後水尾天皇に譲位(じょうい=天皇を譲ること)しました。4月、幕府(ばくふ=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を長とする武家の政権)に、上杉家(うえすぎけ)の秩禄(ちつろく=官位によって賜る俸禄(給与))及び諸大夫(しょだいぶ=官人の階層の名称)の人数を問われました。上杉家は、幕府に、直江兼続三万石、本庄出羽守(ほんじょう でわのかみ)二万石と申しあげました。夏、兼続の養嗣子(ようしし=家督をつぐ養子)直江安房守勝吉(なおえ あわのかみ かつよし=相模甘繩城(さがみ あまなわ じょう=現在の神奈川県鎌倉市城廻にあった城)主・本多正信の子)は、上杉家を去り、本多正信のもとへ帰りました。ついで前田利光(まえだ としみつ)に仕え、本多安房守政重(ほんだ あわのくに まさしげ)と改名しました。
以上諸説あり。