ここでは、1604年~1606年までに、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。
1604年(慶長(けいちょう)九年)2月、景勝(かげかつ)の妻・菊姫(きくひめ)、京都で死去し、妙心寺塔頭華院(みょうしんじ たっちゅう かいん)に埋葬(まいそう=死者を土の中に埋めること)しました。同月、兼続(かねつぐ)、米沢大町札辻(よねざわ おおまち ふだつじ=現在の福島県会津若松市大町(ふくしまけん あいずわかまつし おおまち))を基点(物事のもととなる点)として各村への里程(りてい=みちのり)を決定し、米沢市街(よねざわしがい=現在の山形県置賜地方(やまがたけん おきたまちほう))の防備(ぼうび=外敵や災害に対してそなえをすること)を厳重(げんじゅう=きびしいこと)にするよう命(めい=命令)じました。8月、兼続、郡中百姓役儀(ぐんちゅう ひゃくしょう えきのぎ)を定めました。閏8月、兼続、百姓役儀を改正(かいせい=法律や制度などをあらためただすこと)しました。また民衆統治(みんしゅう とうち=国家や社会を構成している多くの人々をまとめおさめること)のため、15カ条の掟書(おきてがき=公布法の一形式)を発布(はっぷ=法律や憲法などを、世の中に広く知らせること)しました。同月中旬、兼続、本多正信(ほんだ まさのぶ)の二男左兵衛政重(さひょうえ まさしげ)を養子(ようし=養子縁組によって子となった者)とし、娘の婿(むこ=娘の夫)としました。9月、景勝、近江国友村(おうみのくに ともむら=現在の滋賀県長浜市)の吉川総兵衛(よしかわ そうべえ)、和泉堺(いずみ さかい=現在の大阪府大阪市)の和泉屋杢右衛門(いずみや もくえもん)を招いて白布高湯(しらぶおんせん=現在の山形県米沢市にある温泉)で鉄砲(てっぽう)を鋳造(ちゅうぞう)させました。
1605年(慶長十年)1月、兼続の次女が病死しました。4月、徳川家康の子秀忠(ひでただ)、二代将軍となりました。8月、兼続の長女・松(まつ)が病死しました。
1606年(慶長十一年)4月、兼続、郡代(ぐんだい=職名の一つ)春日元忠(かすが もとただ)に金鉱(きんこう)、その他鉱山(こうざん)採掘(さいくつ)に関し定書(さだめがき=幕府から発せられた法令や規則)を発布(はっぷ=法律や憲法などを、世の中に広く知らせること)しました。5月、将軍秀忠は、景勝に桜田邸(さくらだ てい)の右向かいの鱗屋敷(うろこ やしき)を賜い(たまわい=頂く)、兼続は、ここに住居(じゅうきょ=住まい)することになりました。11月、景勝、禁裏造営(きんり ぞうえい=天皇の住居を築城)の役を努めました。
以上諸説あり。