ここでは、1599年~関ヶ原の戦いの1600年までで、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。
1599年(慶長(けいちょう)四年)3月、兼続、上洛中(京都にいる最中)、南化和尚(なんげ おしょう)から文鑑(ぶんかん=助字・序・記・銘・文筆・詩等について解釈した秘巻)を贈られました。7月、兼続、普請奉行(武家の役職の一つ)を派遣(ある使命をもっておもむかせること)して仙道七郡(せんどう しちぐん)の道路、橋梁(きょうりょう)を整備しました。8月、景勝(かげかつ)、伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふ きょうとし ふしみく))を発(はっ=出発)し、若松城(わかまつじょう=現在の福島県会津若松市追手町(ふくしま あいずわかまつし おいてまち)にあった城)に帰りました。兼続は、病気になったため、数日遅れで帰国しました。兼続は、信濃岩村田(しなの いわむらた=現在の長野県佐久市岩村田(ながのけん さくし いわむらた))の商人(しょうにん=商売を職業としている者)中沢善三郎(なかざわ ぜんざぶろう)に商売役を免除(めんじょ=義務などを果たさなくてもよいと許すこと)しました。兼続は、春日右衛門(かすが うえもん)に米沢の庶務を命じました(めいじました=命令)。9月、兼続、去年、越後(えちご=現在の本土の新潟県)より持参の公金貨保有高(こうきんかほゆうだか)を調べ、その明細目録(めいさいもくろく=明細一覧)六八八〇両を池浦(いけうら)・山田(やまだ)に、交付(公の機関から、一般の人に書類や金品などを引き渡すこと)しました。
1600年(慶長五年)2月、景勝、神指原(かみさしはら=現在の福島県会津若松市上指町(ふくしまけん あいずわかまつし こうざしまち))に新城(しんじょう=新しい城)を築城(ちくじょう=城を築くこと)し、兼続に総観(そうかん=全体を観察すること)しました。3月、景勝、兼信(かねのぶ)の23回忌法要(故人の亡くなった月日と同じ月日に営む法要のこと)を営みました。4月、豊光寺 承兌(ほうこうじ しょうたい=現在の京都府京都市上京区相国寺門前町にある寺社の臨済宗(りんざいしゅう=仏教,禅宗の一派)の僧)の書状(しょじょう)と兼続が到着しました。5月、兼続の返書、承兌に到着しました。家康(いえやす)、兼続の答書(とうしょ=返事の書状)をみて怒り、諸大名(しょだいみょう=多くの大名)に会津征伐(あいざ せいばつ=徳川家康によって行なわれた会津の大名・上杉景勝征伐(せいばつ=反逆するものをせめうつこと)のこと)を命じました。7月、兼続、芋川正親(いもかわ まさちか)らに書状を送り、白河小峰城(しらかわこみねじょう=現在の福島県白河市郭内にあった城)の普請(ふしん=土木・建築の工事)を急がせました。同月、兼続、越後一揆(えちご いっき=関ヶ原の戦いに関連する越後(現在の新潟県の本州部分)での局地戦の一つ)の催促(さいそく=早く実行するよう要求すること)等に関し、弟の会津鴫山城(あいず しぎやま じょう=現在の福島県南会津町田島にあった城)将・大国実頼(おおくに さねより)に書状を出しました。8月、景勝、越後の旧臣(きゅうしん=古くから仕えている家来)に越後一揆を起こさせ、下倉山城(したくらやまじょう=現在の新潟県魚沼市下倉字滝沢にあった城)を攻めさせました。城主・小倉政熙(おぐら まさひろ)は戦死しました。同月、兼続、伊達政宗(だて まさむね)を討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗する者をうちほろぼすこと)するため福島(ふくしま)に転戦(てんせん=場所を変えて戦うこと)し、岩井信能(いわい のぶよし)に白河(しらかわ)方面の無事の報(ほう=知らせ)を感謝しました。9月、兼続、最上義光(もがみ よしあき)を征伐(せいばつ=反逆するものなどをせめうつこと)しようと出陣の令(しゅつじんのれい=戦場へ向かわせる命令)を発しました。同月、兼続、父・兼豊(かねとよ)に米沢城を守らせ、自ら米沢を出発して最上に向いました。同月、兼続、畑谷城(はたや じょう=現在の山形県東村山郡山辺町畑谷(やまがたけん ひがしむらやまぐん やまのべまち はたや))を攻略(こうりゃく=敵陣や敵地を攻め取ること)し、城将・江口道連を殺しました。同月、兼続、進軍(軍を進めること)して上山城(かみのやま じょう=現在の山形県上山市(やまがたけん かみのやまし))・長谷堂城(はせどう じょう=山形県山形市長谷堂(やまがたけん やまがたし はせどう)にあった城)両城を攻撃(こうげき=進んで敵を攻め撃つこと)しました。同月、兼続、秋山定綱(あきやま さだつな)を通じて戦況(せんきょう=戦場のありさま)を景勝に報じました。同月、関ヶ原の戦いが行われていました。同月末、西軍の敗報(戦いに負けたという知らせ)が、米沢に伝わりました。同月、景勝、米沢城留守将・樋口兼豊(ひぐち かねとよ)に伊達政宗(だて まさむね)の来襲(らいしゅう=おそってくること)に備えて守備を厳(げん=態度や処置がきびしい)にするよう命じました。10月、兼続、関ケ原の敗報を聞き、兵を率いて畑谷城に入りました。同月、兼続、若松で軍事会議を開き、和戦(わせん=戦いをやめて仲直りすること)を協議(きょうぎ=話し合って決めること)しました。のち、千坂景親(ちさか かげちか)より上方(じょうほう=京都付近)の情勢(じょうせい=その時々のようす)を聞き、和平の議(わへいのぎ=争いをやめて仲直りし、平和になること)を決定しました。11月、兼続、福島(ふくしま=現在の福島県福島市)に到着、本庄繁長(ほんじょう しげなが)に上洛(京都に入ること)の命令を伝達しました。
以上諸説あり。