直江兼続(18/28)(1595年~1596年)

ここでは、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)が切腹した年(1595年)から1596年の直江兼続(なおえ かねつぐ)の出来事を勉強します。

1595年(文禄(ぶんろく)四年)1月、兼続(かねつぐ)、立岩喜兵衛(たていわ きへい)、志駄修理亮(しだしゅうりのすけ)を庄内二郡(しょうない にぐん)の金山奉行(かねやま ぶぎょう)に任命(ある官職や役目につくことを命ずること)しました。2月、兼続、藤井堰(ふじいせき=現在の新潟県柏﨑市)の掟(その社会の人々が守らなければならない決まり)を定めました。6月、兼続、景勝(かげかつ)の命をうけ、蒲原郡(かんばらぐん=現在の新潟県・福島県にあった郡)の検地(けんち=領地の支配者が、自分の土地をはあくするために行った土地調査のこと)を実施(じっし=法律・計画などを実際に行うこと)するため甘粕長重(あまかす ながしげ)・上松弥兵衛(うえまつ やへい)を監察使(かんさつし=日本が設置した地方行政監察のための官職)に任命(ある官職や役目につくことを命じること)しました。6月、兼続、湯殿山(ゆどのさん=現在の山形県鶴岡市・西村山郡西川町にある寺院)上人(しょうにん=寺院の住職)に祈禱(きとう=神仏にその加護・恵みを求めて祈ること)を感謝し米十石(こく=質量の単位)を寄進(きしん=神社や寺院に金銭や物品を寄付すること)しました。10月、秀吉(ひでよし)の命をうけて、増田長盛(ました ながもり)は、信越両国(しんえつ りょうごく=現在の長野・新潟両県)の検地を完了(かんりょう=ものごとを完全に終えること)し、兼続の命で大石播磨守綱元(おおいし はりまのかみ つなもと)は、奉行(ぶぎょう=武家における職名の一つ)をつとめました。11月、兼続の監督(かんとく=物事を取り締まること)で伏見邸(ふしみのてい)を完成させました。千坂対馬守(ちさか つしまのかみ)を留守居役(るすいやく=主人や家人などの外出中、その家を守ること)に命じました。12月、兼続、南化和尚(なんげ おしょう)より僧万里筆写(そうばんり ひっしゃ)の前漢書十二巻(中国の書物)を贈られました。

1956年(慶長(けいちょう)元年)5月、兼続、甘粕景継(あまかす かげつぐ)とともに羽黒山長寿寺金堂宝形(はぐろさん ちょうじゅじ こんどう ほうぎょう=山形県鶴岡市にある山寺)を造営(ぞうえい=社寺・宮殿などを建てること)しました。閏7月、兼続、舟岡源左衛門(ふなおか げんざえもん)の妻の病気平癒祈願(びょうき へいゆ きがん=病気が完治して回復すること願うこと)のため伊勢神宮(いせ じんぐう=現在の三重県伊勢市ある寺社)に大神楽(だいかぐら=伊勢神宮へ一般の参詣人(さんけいにん=おまいりする人)が奉納(神仏に献上すること)する神楽(神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞))を奏でました。8月、兼続、丸田周防守俊次(まるた すおうのかみ としつぐ)に条目(じょうもく=箇条書きになっている法律や規則など)を与えました。9月、兼続、本堂山城(=現在の新潟県五泉市石曽根(にいがたけん ごせんし いしぞね)にあった城)主・丸田周防守定後に検地後の措置(そち=しょちすること)を命じました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA