直江兼続(16/28)(1592年~1593年)

ここでは、文禄の役(ぶんろく の えき)があった年(1592年~1593年)を勉強します。

1592年(文禄(ぶんろく)元年)3月、兼続(かねつぐ)、景勝(かげかつ)に従い、兵五千を率いて春日山城(かすがやまじょう=現在の新潟県上越市(にいがたけん じょうえつし)にあった山城)を出発しました。同月、入洛(じゅらく=京都に入ること)して数日、滞京(たいきょう=京都にとどまること)し、兼続は、肥前名護屋城(ひぜん なごやじょう=現在の佐賀県唐津市(さがけん からつし)にあった城)で景勝に従い博多(はかた=現在の福岡県北九州市(ふくおかけん きたきゅうしゅうし))の貿易商(ぼうえきしょう=商品の輸出入を営業とする個人、または会社)神谷宗湛(かみや そうたん)より茶の湯の招待を受けました。4月、兼続、秀吉(ひでよし)に献上する粮米(ろうまい=食糧としての米)三千石(こく=質量の単位)を名護屋に廻送(かいそう=送られてきたものを、他へ送ること)するよう立岩喜兵衛(たていわ きへい)に命じました。同月、兼続、名護屋滞在中(たいざいちゅう=よそに長くとどまっている最中)、済世救方(せいせいきゅうほう)三百巻を借りて写しました。6月、兼続、秀吉の乗船小鷹丸に乗り、名護屋を出発し、景勝に従って現在の大韓民国へ出向し、同月に釜山浦(ふさんほ=現在の大韓民国釜山市)に着岸し、熊川倭城(うんちょんうぇそん=現在の大韓民国昌原市鎮海区南門洞山にあった日本の城)を修築し、文禄の役が始まりました。8月、兼続、糧倉護衛(りょうそう ごえい=食料倉庫の護衛)、陣地撰択(じんち せんたく=戦闘のために部隊を配置を決めること)、汚穢掃除(おわい そうじ=よごれをそうじすること)を立岩喜兵衛に命令しました。

1593年(文禄二年)1月、兼続、景勝と共に朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮半島)陣中(じんちゅう=陣地の中)で連歌会(れんがかい=五・七・五の長句に対して、その情景から次の脇句(わきく=七・七の短句) を想像する連想ごっこ)を開催(かいさい=開くこと)しました。5月、兼続、羽黒山麗(はぐろざんろく=現在の山形県鶴岡市羽黒町手向)の神橋(しんきょう=神殿や神社の境内(けいだい)などに架けてある橋)の擬宝珠(柱の上に設けられている飾り)を寄進(きしん=神社や寺院に金銭や物品を寄付すること)しました。8月、兼続、食料船(しょくりょうせん=食料を積んで運ぶ船)が釜山に到着(とうちゃく=目的地に行きつくこと)したことを聞き、名護屋で借用(借りて使うこと)した米500石を石田三成(いしだ みつなり)に返済するよう立岩喜兵衛に命じました。9月、兼続が、景勝と名護屋に帰陣(きじん=戦場から帰ること)しました。閏9月、兼続、越後府中(えちご ふちゅう=現在の新潟県上越市五智(にいがたけん じょうえつし ごち))に帰りました。この年、本庄繁長(ほんじょう しげなが)の子・主馬長房(しゅめ ながぶさ)、兼続の養子となり与次郎(よじろう)と改めました。のち、理由あって生家(その人の生まれた家)に帰りました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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