ここでは、小田原城の戦いがあった年、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が天下統一する年(1590年)を勉強します。
1590年(天正(てんしょう)十八年)3月、兼続、景勝(かげかつ)に従い秀吉(ひでよし)の小田原(おだわら=現在の神奈川県小田原市(かながわけん おだわらし))征伐(せいばつ)に出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)、前田利家(まえだ としいえ)等と共に4月20日、上野国松井田城(こうずけのくに まついだじょう=城主・大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)、現在の群馬県安中市松井田町新堀(ぐんまけん あんなかし まついだまち にいぼり)にあった城)、6月14日、武蔵国鉢形城(むさしのくに はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町(さいたまけん おおさとぐん よりいまち)にあった城)、6月24日、武蔵国八王子城(むさしのくに はちおうじ じょう=現在の東京都八王子市八王子町(とうきょうと はちおうじし はちおうじちょう)にあった城)を攻略(敵を攻めて勝利をすること)しました。7月5日、小田原城落城(らくじょう=城が攻め落とされること)し、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が自刃(じじん=刃物を使って自らの生命をたつこと)し、北条氏(ほうじょうし)は滅亡(めつぼう=ほろびること)しました。兼続、小田原攻めに奮戦(ふんせん=一生懸命に戦うこと)しました。8月23日、庄内藤島(しょうない ふじしま=現在の山形県東田川郡(やまがたけん ひがしたがわぐん))一揆(いっき=幕府などに反抗し地侍・農民・信徒らが起こした暴動)がおこりました。兼続、大宝寺(だいほうじ=現在の山形県鶴岡市(やまがたけん つるおかし)にある寺院)に着きました。9月18日、大谷吉継(おおたに よしつぐ)、兼続の処置を感謝しました。11月10日、兼続、上野源左衛門(こうずけ げんざえもん)に伝馬(てんま=使者や物資を馬で運ぶ交通制度)宿送(しゅくおくり=宿ごとに人馬をかえて送ること)、普請棟役免除(ふしん むねやく めんじょ=土木・建築工事に課す課税されないこと)の証状(しょうじょう=ある事実を証明する文書)を出しました。11月14日、兼続、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市にあった山城)留守将(留守を守る)黒金景信(くろがね かげのぶ)に庄内仕置(しょうないしおき=現在の山形県に対する領土仕置)することと、20日ごろ帰城することを知らせました。11月下旬、兼続、景勝に従って春日山城に帰りました。
以上諸説あり。