ここでは、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市にあった山城)で僧了阿(そうりょうあ)より古文真宝(こぶんしんぽう=中国の詩文集)の講義をうけた年(1588年)から、景勝(かげかつ)が、兼続以下家臣(かしん=家来(けらい))と漢和連句会(かんなれんくかい)を開催(かいさい=会やもよおしものなどを開くこと)する年(1589年)を勉強します。
1588年(天正(てんしょう)十六年)1月、兼続、春日山城で僧了阿より古文真宝の講義をうけました。1月27日、兼続、宇津江朝清(うつえちょうせい)邸で漢和連句会(かんなれんくかい)を催しました(もよおしました=人を集めて行事などを行う)。3月10日、兼続、こせ山九郎兵衛(糸魚川市御前山)へ判物(はんもつ=武家文書の一つ)を与えました(あたえました=自分の所有する物を目下の相手に渡しその者の物とすること)。4月2日、兼続、専称寺(せんしょうじ=現在の新潟県柏崎市にある寺院)に安堵状(あんどじょう=大名などの主君が家臣の武士に対して、所領・所職などの知行の安堵(保証)の際に出された文書)を与えました。4月16日、兼続の父・樋口惣右衛門尉兼豊(ひぐちそうえもんかねとよ)が、伊予守(いよのかみ=現在の愛媛)に4月20日、兼続、景勝(かげかつ)に従って上洛(京都に入ること)し、5月7日、京都本国寺(きょうと ほんごく じ)に到着しました。5月26日、景勝が、従三位(位階の一。正三位の下、正四位上の上。)に任ぜられました。8月17日、兼続が、従五位下(従五位上の下、正六位上の上。)をうけたまわり、豊臣(とよとみ)の姓(せい=一族)を許されました。上洛中、景勝に従って高野山(和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある山)に参詣(さんけい=神仏におまいりすること)し、高野山竜光院(こうやさん りゅうこういん=現在の和歌山県伊都郡高野町高野山にある寺院)の清融阿闍梨を養子としました。兼続、前妙心寺住南化和尚(ぜん みょうしんじ じゅう なんげ おしょう)より古文真宝抄(こぶんしんぽうのしょう)23巻を借りて写しました。8月下旬、兼続、景勝に従って帰国しました。7月8日、秀吉(ひでよし)、刀狩令(かたながりれい=農民から武器を取り上げること)を発布しました。
1589年(天正十七年)4月15日、芦名義広(あしな よしひろ)の将・山内氏信(やまうち うじのぶ)が、米沢城(よねさわ じょう=山形県米沢市丸の内にあった平城)主・伊達政宗(だて まさむね)が来攻(らいこう=敵が攻めて来ること)の噂(うわさ)を兼続に書状で知らせ、救援を要請しました。5月13日、大宝寺義勝(だいほうじ よしかつ)、春日山城に来城(らいじょう=城にくる)し、景勝に太刀(たち=刃を下にして腰帯にぶら下げるもの)・馬・金・鷹(たか=タカ目タカ科に属する鳥)等を献上(けんじょう=身分の高い人に物をさしあげること)しました。兼続、大石播磨守(おおいし はりまのかみ)等に太刀・馬・金子(きんす=お金)・米を贈りました。6月12日、景勝、本間高統(ほんま たかつな)の河原田城(かわはらだじょう)は、現在の新潟県佐渡市石田にあった城)を攻略(敵を攻めて勝利を収めること)しました。6月16日、本間高茂(ほんま たかつな)の羽茂城(はもちじょう=現在の新潟県佐渡市羽茂本郷あった城)を攻略しました。6月29日、兼続、妙宣寺(みょうせんじ=新潟県佐渡市阿仏房にある寺院)に寺領安堵状(じりょう あんど じょう=寺院に付属する土地の確認を行う際,証拠(しょうこ)となる文書として発給(出して与えること)された文書)の命令を出しました。7月17日、石田三成(いしだ みつなり)と増田長盛(ました ながもり)が、兼続に芦名義広(あしの よしひろ)の救援を要請しました。9月11日、兼続、遊行上人(ゆぎょうしょうにん=時宗の総本山遊行寺(清浄光寺)の歴代住職のこと)満悟の伝馬宿送(てんましゅくおくり)を所々領主(しょしょ りょうしゅ=あちこちの領土の持ち主)に命令しました。9月29日、景勝、兼続以下家臣(かしん=家来(けらい))と漢和連句会を開催(かいさい=会やもよおしものなどを開くこと)しました。12月26日、佐竹義宣(さたけ よしのぶ)、兼続に景勝の会津(現在の福島県西部)出陣を要請しました。
以上諸説あり。