ここでは、秀吉が関白(かんぱく=成人後の天皇を助けて政務をつかさどった重職)になった年(1585年)から、上杉景勝が、秀吉と大坂城(おおさか じょう=現在の大阪市東区大坂城(おおさかふ おおさかし ひがしく おおさかじょう))で会見(特定の場所で公式に人と会うこと)する年(1586年)を勉強します。
1585年(天正(てんしょう)十三年)2月10日、越中(えっちゅう=現在の富山県(とやまけん))の寺島盛徳(てらしま もりのり)・秀豊(ひでとよ)が、兼続(かねつぐ)と上条入道(かみじょう にゅうどう)に書状を送り、佐々成政(さっさ なりまさ)の侵攻(他の領土を攻め込むこと)に備えて(そなえて=これから先に起こる事に対応できるように準備しておくこと)景勝(かげかつ)の出陣(しゅつじん=戦場へむかうこと)を要請(ようせい=必要なこととして、実現を願い求めること)しました。6月16日、兼続、軍用(ぐんよう)行李(こうり=竹などをあんで作られたつづらかご)を越中境(えっちゅう さかい=現在の富山県下新川郡朝日町境(とやまけん しもにいかわぐん あさひまち さかい))へ送り、秀吉(ひでよし)の佐々成政征伐(せいばつ=反逆するものなどをせめうつこと)に協力して景勝の越中出陣の準備をしました。7月16日、兼続、嶋倉早介(しまくら そうすけ)に20貫文(かんもん=貫(かん=銭貨を数える単位))の地を宛行いました(あておこないました=領地などをあたえること)。9月2日、石田三成(いしだ みつなり)が、兼続に戦勝(せんしょう=戦争に勝つこと)祝賀(しゅくが=喜び祝うこと)の礼状(れいじょう=礼をのべた書状)を出しました。
1586年(天正十四年)3月19日、兼続が、伊達政宗(だて まさむね)に書状を送りました。5月16日、石田三成・木村清久(きむら きよひさ)・増田長盛(ました ながもり)が、兼続に書状を送り、景勝が秀吉に謁見(えっけん=身分の高い人にお目にかかること)した方がよいとすすめました。5月20日、景勝が、甘粕景継(あまかす かげつぐ)・色部長真(いろべ ながざね)・本庄繁長(ほんじょう しげなが)等に留守を命じ、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市にあった山城)を出発し上洛(じょうらく=京都に向かうこと)の途につきました(京都に帰りました)。兼続も従いました。6月7日、入京(京都に入りました)、六条本国時(ろくじょう ほんごくじ=現在の京都府京都市山科区にある寺院)を宿としました。6月14日、景勝、関白秀吉と大坂城で会見し、白銀(しろがね=銀)500枚、越後布(えちご ふ=越後(えちごのくに=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)で織られる平織りの麻織物)300反(たん=布類の長さの単位)をおくりました。6月16日、秀吉が、景勝を茶の湯に招きました。千宗易(せんそうえき=利休(りきゅう))が、兼続・千坂対馬守(ちさか つしまのかみ)を茶の湯に招きました。6月15日、桐沢具繁(きりさわ ともしげ)、新発田(しばた=新潟県新発田市)方面の無事を兼続に知らせました。6月21日、景勝、従四位下(位階の一。正五位上の上、従四位上の下。)左近衛権少将(さこんえごんしょうしょう=官職の一。)に任ぜられました(地位、または職務につかせる)。6月24日、景勝、兼続、京都を出発し、7月6日、帰国しました。8月、景勝、新発田重家(しばた しげいえ)征討(せいとう=反逆する者などをせめうつこと)のため出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。26日、五十公野城(いじみのじょう=現在の新潟県新発田市五十公野にあった城)下に放火(ほうか)し、兼続、御弓頭(おんゆみがしら=弓足軽の部隊を統率する者)として出陣しました。9月11日、兼続、雲洞庵(うんとうあん=現在の新潟県南魚沼市雲洞にある寺院)に禁制(きんせい=ある行為を禁ずること)を下しました。9月22日、本願寺(ほんがんじ)の僧素休、兼続に書状を送り、上条宣順(じょうじょう せんじゅん=上条政繁(じょうじょう まさしげ))について知らせました。9月25日、石田三成・増田長盛、兼続に答謝しました。9月28日、秀吉が、木村清久に景勝と重家(しげいえ)間を調停(ちょうてい=対立する両者の間にはいって、両者の妥協点を見いだし、争いがやむようにすること)させました。清久は、新発田(しばた=新潟県新発田市)に至って(いたって=その場所に行き着く)兼続に重家の降伏(こうふく=降参(こうさん))条件を示しました。10月1日、兼続が、嶋垣隼人佑(しまがき はやとのすけ)の沼垂(ぬったり=現在の新潟県新潟市)の戦功(戦いの手柄)を褒め(ほめ=高く評価していると,口に出して言う)、船を一そうゆるし、与えました。また、その父宗兵衛(そうべえ)と共に新潟港(にいがたこう)の諸事(しょじ=いろいろの事)を命じました。
以上諸説あり。