直江兼続(10/28)(1584年)

ここでは、小牧・長久手の戦いがあった年(1583年)を勉強します。

1584年(天正(てんしょう)十二年)1月27日、兼続、景勝の命(めい=命令)で高野杢右衛門(こうやもくえもん)に丸山・中島・牧山分の闕所地(けっしょち=土地の財産を没収すること)を宛行(あておこな)いました。2月11日、兼続、景勝の命で栗林政頼(くりばやし まさより)に荒戸関所(あらと せきしょ)の関銭(せきせん=関所を通る人馬荷物などに課した通行税)を収納させました。2月14日、越中の諸将神保昌国(じんぼう まさくに)・神保広胤(じんぼう ひろたね)塩井職清・唐人広親(かろうど ひろちか)・池田師宗・寺島信鎮・寺島盛徳(てらしま もりのり)、景勝の出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)を兼続と狩野讃岐守(かの さぬきのかみ)に要請(ようせい=必要なこととして、実現を願い求めること)しました。4月2日、景勝、信州(しんしゅう=現在の長野県)に出陣(しゅつじん=戦場へむかうこと)し屋代秀正(やしろ ひでまさ)を討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗するものを討ち滅ぼすこと)しました。兼続も従軍(じゅうぐん=軍隊に従って戦地に行くこと)しました。4月21日、小笠原貞慶(おがさわら さだよし)、信濃麻積城(しなの おみじょう=現在の長野県東筑摩郡麻績村にあった城)を攻撃しました。嶋津義忠(しまづ よしただ)は、貞慶(さだよし)軍を攻略しました。景勝、兼続等、嶋津義忠の戦功(せんこう=戦争で立てたてがら)を褒(ほ)めました。4月25日、山岸光祐(やまぎし こうすけ)・秀能(ひでよし)、新発田城(しばたじょう=現在の新潟県新発田市(にいがたけん しばたし)にあった城)の捕虜(ほりょ=戦争などで敵に捕らえられた人)を春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市(にいがたけん じょうえつし)にあった山城)に送り、兼続等に春日山城大手口(かすがやまじょう おおてぐち)の寄居(ききょ=他人の家に一時身を寄せること)を警戒(けいかい=好ましくない事が起こらないように、注意し用心すること)するよう報じました。7月11日、景勝、秀吉(ひでよし)の命で上質上条宣順の子を送りました。この日、木村清久(きむら きよひさ)・石田三成(いしだ みつなり)・増田長盛(ました ながもり)、秀吉に代わって兼続に答謝しました。11月24日、景勝、兼続の父樋口惣右衛門兼豊(ひぐち そうえもん かねとよ)を直峰城(のうみねじょう=現在の新潟県上越市安塚区安塚にあった城)主に命じました。11月27日、景勝、樋口惣右衛門に本領(ほんりょう=他人にまねのできないような、その人独特の性質や才能)・新地(しんち=居住地や商業地として新しく拓かれた土地のことを指す)とも郡司不入(ぐうじ ふにゅう=荘園内に国・郡司が立ち入ることができない特権)の待遇(客などをもてなすこと)を与えました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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