ここでは、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)が、樋口兼続(ひぐち かねつぐ)に直江の家名を継がす年(1581年)から、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、信濃飯山城(いいやまじょう=現在の長野県飯山市飯山(ながのけん いいやまし いいやま)にあった城))将(しょう=軍隊を率い指揮する者)・岩井信能(いわい のぶよし)と血判(けっぱん=指を切ってその血で自分の名前の下に押すこと)の誓紙(誓いの言葉を記した紙)を交換した年(1582年)を勉強します。
1581年(天正(てんしょう)九年)2月28日、景勝(かげかつ)は御館の乱(おたてのらん=景勝と景虎との間で起こった越後のお家騒動)の功績(こうせき=てがら)を称し、樋口与三右衛門(ひぐちよさうえもん)を荒戸城(あらとじょう=現在の南魚沼郡湯沢町神立にあった城)将(しょう=軍隊を率い指揮する者)とし、100万石を加増しました。4月28日、兼続(かねつぐ)が、新潟の船江明神(ふなえ みょうじん)に諸役(しょやく=いろいろの役目)を免除(めんじょ=役目をゆるすこと)しました。5月6日、越中願海寺城(えっちゅう がんかいじじょう=現在の富山県富山市願海寺にあった城)将・寺崎盛光(てらさき もりみつ)没し(亡くなり)、その臣(おみ=家来)小野大学等信長の菅屋長瀬(すがや ながより)に内応(ないおう=味方を裏切ってひそかに敵と通じること)。田中尚賢(たなか しょうけん)・丸田俊次(まるた としつぐ)・安部政吉(あべ まさよし)等、これを兼続(かねつぐ)に報じました(しらせました)。6月3日、越中松倉城(まつくらじょう=現在の富山県魚津市鹿熊にあった山城)将・上条宣順(じょうじょう せんじゅん=上条政繁(じょうじょう まさしげ))、敵情(てきじょう=敵の状況)を探(さぐ)って兼続に報じました。6月16日、新発田城(しばたじょう=現在の新潟県新発田市大手町にあった城)主・新発田重家(しばた しげいえ)、織田信長(おだ のぶなが)に通じて、景勝にそむきました。6月22日、景勝と兼続は蓼沼友重(たでぬま ともしげ)を木場城(きばじょう=現在の新潟県新潟市西区木場にあった城)主将として本丸に置き、山吉景長(やまよし かげなが)を二の丸に配置し、守備を厳重(げんじゅう)にし、新発田重家の行動(こうどう)を探報(たんほう=さがしだして、報告すること)させました。7月14日、越中番将黒金景信(えっちゅう ばんしょう くろがね かげのぶ)・広居忠家(ひろい ただいえ)・楠川将綱(くすがわ まさつな)は加賀(かが=現在の石川県南部)・能登(のと=石川県北部)の敵情を兼続に報じ、景勝の出馬(しゅつば=馬に乗って戦場に出向くこと)を要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)しました。7月17日、吉江宗信(よしえ むねのぶ)等は越中木舟城(えっちゅう きふね じょう=現在の富山県高岡市福岡町木舟にあった平城)落城(敵に城を攻め落とされること)により海路退去し、市振(いちぶり=現在の新潟県糸魚川市市振)に到着したことを兼続に報じました。7月17日、上条宣順、越中(えっちゅう=現在の富山県)より帰国し病気にかかりました。景勝、使者を遣わして(つかわして)慰問(いもん=見舞ってなぐさめること)しました。宣順、兼続に感謝しました。7月28日、景勝、故越中松倉城主河田長親(こ えっちゅう まつくらじょう しゅ かわだ ながちか)の毛利秀広(もうり ひでひろ)に与えた地を変更しました。長親の後室(身分のある人の未亡人)が詫言(わびごと)をいったので、黒金景信は兼続に報じました。9月1日、毛利秀広、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市にあった山城)内で山崎専柳斎秀仙(やまざき せんりゅうさい しゅうせん)を斬殺(きりころ)し、とめに入った直江信綱(なおえ のぶつな=長尾顕景(ながお あきかげ)の子)も秀広に討たれました(斬り殺されました)。ついで景勝が、樋口兼続(ひぐち かねつぐ)に直江の家名を継がしました。兼続、信綱(のぶつな)の後家(ごけ=夫に死別した妻)おせんの方(直江景綱(なおえ かげつな)の娘)と結婚しました。10月3日、越中松倉城(えっちゅう まつくら じょう)将黒金景信、越中の現状を樋口与六(ひぐち よろく=兼続)に報じました。11月19日、越中番将須田満親(すだ みつちか)、樋口与六(兼続)に越中守備(しゅび=敵の攻撃に備えて守ること)に尽力(じんりょく=力をつくすこと)することを報じました。
1582年(天正(てんしょう)十年)2月10日、越中堺城(えちゅう さかい じょう=現在の富山県下新川郡朝日町(とやまけん しもにいかわぐん あさひまち)に存在した山城)将(しょう=軍隊を率い指揮する者)・黒金景信(くろがね かげのぶ)が、兼続(かねつぐ)に越中端泉寺(えっちゅう ずいせんじ=現在の富山県南砺市井波町(とやま なんとし いなみまち)にある寺院)等の服属(ふくぞく=服従して下につくこと)を報じました。2月22日、楠川正綱(くすがわ まさつな)等、越中の戦況を竹俣慶綱(たけのまた よしつな)等に報じました。ついで菅名綱輔(すがな つなすけ)、このことを兼続に報じました。3月13日、兼続が、信濃飯山城(いいやまじょう=現在の長野県飯山市飯山(ながのけん いいやまし いいやま)にあった城))将・岩井信能(いわい のぶよし)と血判(けっぱん=指を切ってその血で自分の名前の下に押すこと)の誓紙(誓いの言葉を記した紙)を交換しました。3月24日、兼続、上野九兵衛尉(うえの くへいの じょう)に須田満親(すだ みつちか)の指揮(しき)に従って城を堅守(けんしゅ=かたく守こと)するよう命じました。3月、兼続が、常安寺(じょうあんじ=現在の新潟県長岡市谷内にある寺院)に掟書(おきてがき=公布法の一形式。初めに「掟」「定」などと書かれていました)を下しました。4月11日、上条宣順、信濃守備の状況を兼続に報じました。4月23日、越中魚津城(えっちゅう うおづ じょう=現在の富山県魚津市(とやま うおずし)にあった平城)守将(しゅ しょう)山本寺景長(さんぽんじ かげなが)・吉江宗信(よしえ むねのぶ)・安部政吉(あべ まさよし)・石口広宗(いしぐち ひろむね)・若林家吉(わかばやし えいよし)・亀田長乗(かめだ ちょうじょう)・藤丸勝俊(ふじまる かつとし)・蓼沼泰重(たでぬま やすしげ)・寺島長資(てらしま ながすけ)・吉江信景(よしえ のぶかげ)・竹俣慶綱(たけのまた よしつな)・中条景泰(なかじょう かげやす)は連署(二名以上の人がならべて署名すること)して、兼続に決死の覚悟を告げ、これを景勝に披露してほしいと要請しました。5月25日、兼続、蓼沼友重(たでぬま ともしげ)に新発田(しばた)平定(へいてい=敵や賊をたいらげること)後、新潟代官に任命することを約束しました。6月14日、兼続、信濃の将・春日三河守(かすが みかわのかみ)等に本領(ほんりょう=もちまえの性質や才能)を安堵(あんど=安心すること)しました。6月19日、越中湯原国信(ゆはら くにのぶ)、佐々成政(さっさ なりまさ)と戦い破りました。ついで兼続に景勝の越中出兵を要請しました。6月23日、越中松倉城(まつくら じょう=現在の富山県魚津市にあった城)須田満親(すだ みつちか)、兼続に景勝の出馬(馬に乗って出かけること)を要請しました。6月27日、黒金景信(くろがね かげのぶ)と桐沢具繁(きりさわ ともしげ)、兼続に信濃木曽義昌(きそ よしまさ)の深志(ふかし=現在の長野県松本市の中心部にある町名)侵略、上信濃の情報を報じました。7月5日、根知城(ねちじょう=糸魚川市根知根小屋にあった城)将・楠川将綱(くすがわ まさつな)と西片房家(にしがた ぼうや)、信濃小谷(しなのおたり=現在の長野県北安曇郡小谷村(ながのけん きたあづみぐん おたりむら))及び仁科(にしな=長野県大町市にある町)を攻略し兼続に報じました。7月5日、越中神保昌国(じんぼ まさくに)・斎藤信和(さいとう のぶかず)・神保信包(じんぼ のぶがね)・塩井職清・唐人親広(かろうど ちかひろ)・寺嶋信鎮・小島全安、兼続に能登(のと=現在の石川県北部)・加賀(かが=現在の石川県南部)二国を合併すべきであることを説明しました。8月9日、景勝、新発田家(しばたけ)討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと)のため春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市にあった山城)を出発しました。8月18日、出雲﨑(いずもざき=新潟県三島郡出雲崎町(にいがたけん みしまぐん いずもざきまち))に8月20日、三条城(さんじょうじょう=現在の新潟県三条市にあった城)に8月25日、五十公野(いじみの=新潟県新発田市)に着陣(ちゃくじん=陣地に到着すること)しました。9月2日、新発田城(しばたじょう=現在の新潟県新発田市にあった城)を攻撃しました。9月5日、兼続、借金・諸年貢減免・狩猟税等について山田喜右衛門(やまだ きえもん)に報じました。同日、兼続、板倉式部少輔(いたくらしきぶのしょう)の労(ろう=ねぎらう)を慰問(いもん=見舞ってなぐさめること)して、築地資豊(つきじしゆたか)の人物を称美(しょうび=ほめたたえること)しました。9月19日、兼続、景勝(かげかつ)に代わって条目(じょうもく=箇条書きにした法令・規則)を下しました。10月25日、兼続、山吉景長(やまよし かげなが)・蓼沼友重(たでぬま ともしげ)に新発田の動静(どうせい=様子)を報知(ほうち=知らせること)するよう命じました。11月5日、樋口与七、天神山城(てんじんやまじょう=現在の富山県新潟市岩室にあった城)主・小国三河守重頼(おぐに みかわのかみ しげより)の家を相続しました。6月2日、本能寺の変で織田信長が自刃しました。
以上諸説あり。