ここでは、織田信長(おだ のぶなが)が将軍足利義昭(あしかが よしあき)を追放し、室町幕府(むろまち ばくふ)は滅亡(めつぼう=ほろびること)した年(1573年)から、直江大和守景綱が亡くなった年(1577年)までを勉強します。
1573年(天正(てんしょう)一年)5月14日、上杉謙信(うえすぎ けんしん)が、河隅忠清・庄田隼人(かわすみ ただきよ・しょうだ はやと)に越中堺(えちゅう さかい=現在の富山県下新川郡朝日町)海岸の守備を厳重(げんじゅう)にさせ、直江景綱(なおえ かげつな)に春日山城(かすがやま じょう=新潟県上越市にあった山城)の修築(しゅうちく=実城(みじょう=本丸に相当)・二の郭(にのかく=城の本丸の外側を囲む城郭)・三の郭(さんのかく=城の二の丸を囲む外郭の部分)に堀(ほり=敵の侵入を防ぐため、城の周囲に掘られた溝のこと)を築造(ちくぞう=城をきずきつくること))を命じました。6月、織田信長(おだ のぶなが)が将軍足利義昭(あしかが よしあき)を追放し、室町幕府(むろまち ばくふ)は滅亡(めつぼう=ほろびること)しました。
1574年(天正二年)12月19日、謙信が剃髪(ていはつ=かみをそること)し、紀伊高野山(きい こうやさん=現在の和歌山県伊都郡高野町)の僧(そう=仏道を修行する人)清胤(せいいん=真言宗の僧侶)を師(し=ししょう)として、護摩灌頂(ごま かんじょう=密教独自の法儀)を執行(しっこう=とり行うこと)して法印大和尚(ほういんだいかしょう=僧位のひとつ)に任ぜられました。
1575年(天正三年)1月11日、謙信、養子喜平次顕景(きへいじあきかげ=坂戸城(新潟県南魚沼市にあった城)主・長尾政景(ながお まさかげ)の子)に加冠(かかん)し景勝(けいしょう)と改名させ、上杉弾正少弼(うえすぎ だんじょうしょうひつ)を称されました。
1576年(天正四年)12月24日、謙信、能登石動山城(のと せきどうさん じょう=現在の石川県中能登町石動山)を築き、直江景綱に守備を命じました。
1577年(天正五年)2月16日、梶原政景・佐竹義重・里見義弘・宇都宮広綱・結城晴朝(かじわら まさかげ・さたけ よししげ・さとみ よしひろ・うつのみや ひろつな・ゆうき はるとも)など、謙信に北条氏政(ほうじょう うじまさ)の関東(かんとう=現在の神奈川県(かながわけん)・東京都(とうきょうと)・埼玉県(さいたまけん)千葉県(ちばけん)・茨城県(いばらきけん)・群馬県(ぐんまけん)・栃木県(とちぎけん)・静岡県伊豆半島(しずおかけん いずはんとう)・山梨県(やまなしけん))侵略(しんりゃく=武力によって、他国の主権を侵害すること)を報じ援(たすけ)を求めました。28日にも里見義弘(さとみ よしひろ)が直江景綱(なおえ かげつな)を通じ、謙信の出陣(しゅつじん=戦争にむかうこと)を要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)しました。4月5日、直江大和守(やまとのかみ=現在の奈良県)景綱、与板城(よいた じょう=新潟県長岡市与板町にあった城)で亡くなりました。享年(きょうねん=亡くなったときの年齢)70歳でした。9月15日、謙信、能登七尾城(のと ななお じょう=現在の石川県七尾市古城町にあった城)を攻略しました。12月23日、謙信、領国内諸将80余人(よにん)の動員名簿(どういんめいぼ)「上杉家家中名字尽手本」を作成しました。その中に直江大和守景綱も名を連ねていました。景綱はこの日以降、まもなく亡くなりました。
以上諸説あり。