ここでは、上杉謙信(うえすぎ けんしん)が、小田原城(おだわら じょう=現在の神奈川県小田原市城山にあった城)主・北条氏康(ほうじょう うじやす)の七男氏秀(うじひで=天文(てんぶん)二十三年誕生)を養子(ようし=養子縁組みによって子となった者)とし、氏秀に幼名(ようみょう=おさない時の名)「景虎(かげとら)」を授けた年(1570年)から、加賀の一向一揆があった年(1572年)までを勉強します。
1570年(元亀(げんき)一年)3月5日、上杉謙信が、小田原城主・北条氏康の七男氏秀を養子としました。4月25日、謙信、氏秀に幼名「景虎」を授けました。謙信、長尾政景(ながお まさかげ)の娘を景虎(かげとら)の室(しつ=妻)とし、春日山城(かすがやま じょう=新潟県上越市にあった山城)二の郭に置きました。ときに景虎は17歳でした。12月13日、謙信、春日山城看経所(かんきんしょ=お経をみるところ)に越中(えっちゅう=現在の富山県)平定(へいてい=敵や賊を討ち平らげること)の祈願文(願い事を書いた文)を納めました。これより法号(仏門に入った者に授けられる名)「謙信」を称しました(名乗りました)。
1571年(元亀二年)3月29日、謙信、援軍(えんぐん=救援の軍隊)として直江景綱(なおえ かげつな)を遣わそう(つかわそう=目上の人が目下の者に対して人などを行かせる)とし、上野沼田城(こうずけ ぬまたじょう=現在の群馬県沼田市にあった城)将・河田重親(かわだ しげちか)に報じました(恩にむくいりました)。
1572年(元亀三年)5月24日、謙信、関東(かんとう=現在の神奈川県(かながわけん)・東京都(とうきょうと)・埼玉県(さいたまけん)千葉県(ちばけん)・茨城県(いばらきけん)・群馬県(ぐんまけん)・栃木県(とちぎけん)・静岡県伊豆半島(しずおかけん いずはんとう)・山梨県(やまなしけん))情勢(じょうせい=変化していく物事の、その時々のようす)が緊迫(きんぱく=非常にさしせまっていること)しているので越中(えっちゅう=現在の富山県)出陣(しゅつじん=戦場へむかうこと)を延期(えんき=決めた期日・期限をのばすこと)しました。加賀(かが=現在の石川県南部)の一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅう ほんがんじは)による暴動)、椎名康胤(しいな やすたね)とともに越中五位荘に進み日宮城(ひのみやじょう=富山県射水市下条にあった城)に迫りました。鰺坂長実(あじさか ながざね)等、直江景綱(なおえ かげつな)に報じ、謙信の出兵(しゅっぺい=軍隊を派遣すること)を要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)しました。
以上諸説あり。