ここでは、1567年に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1567年(永禄七年)夏、茶々(ちゃちゃ、1567~1615=淀殿(よどどの)または淀君(よどぎみ))が誕生しました。9月、美濃(みの=岐阜県(ぎふけん)南部)の斎藤氏(さいとうし)を本格的に攻撃(こうげき)するため、信長は、好きな表現「乾坤一擲(けんこんいってき=運命をかけて、いちかばちかの大勝負をすること)」で長政の参戦を促してきました(うながしてきました=早くするように急がしました)。この要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)は斎藤氏が六角氏(ろっかくし)や三好三人衆(みよし さんにんしゅう=三好長慶(みよし ちょうけい、1522~1564=畿内(きない=現在の大阪府(おおさかふ)の大部分と、京都府(きょうとふ)の南部、兵庫県(ひょうごけん)の南東部、奈良県(ならけん)の全域)・阿波国(あわのくに=現在の徳島県(とくしまけん))の戦国大名)の武将・三好長逸(みよし ながやす)、岩成友通(いわなり ともみち、~1573)、三好政康(みよし まさやす、~1569))と松永弾正久秀(まつなが だんじょう ひさひで、1508~1577=大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん)) の戦国大名)の三名) と組んでいることを危惧(きぐ=おそれること)した織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。のちの天下人(てんかびと= 国じゅうを支配するひと ))が、長政の力によって少なくとも六角氏を動けないようにすることでした。そして信長は、合戦(かっせん=戦い)ではなく、人誑し(ひとたらし=人をだますこと)の名人であった木下藤吉郎(きのした とうきちろう、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人))を使って、「西美濃三人衆(曾根城(いなばじょう=現在の岐阜県大垣市(ぎふけん おおがきし)にあった城)主・稲葉一鉄(いなば いってつ、1515~1589=稲葉良通(いなば よしみち)))、大垣城(おおがきじょう=現在の岐阜県大垣市郭町(くるわまち))主・氏家ト全(うじいえ ぼくぜん、1512~1571=氏家氏12代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))、北方城(きたかたじょう=現在の岐阜県本巣郡北方町(とすぐんきたがたちょう)にあった城)主・安藤守就(あんどう もりなり、1503~1582)」を寝返らせ、さらに伊賀定治(いが さだはる、~1582=安藤定治(あんどう さだはる))まで取り込んで、満を持して(まんをじして=十分に用意して機会を待って)美濃に侵攻(しんこう=他国をせめ、その領土に侵入(しんにゅう)すること)しました。稲葉山城(いなばやまじょう=現在の岐阜県岐阜市の金華山(きんかざん)にあった城)の玄関口である井ノ口(いのくち=現在の岐阜県岐阜市)を急襲(きゅうしゅう=敵のすきをねらって、急に襲(おそ)いかかること)し、一気に焼き払いました。斎藤龍興(さいとう たつおき、1548~1573=美濃国の戦国大名。道三(どうさん)流斎藤家3代)は為す術(なすすべ)もなく城を捨て、伊勢長島(いせ ながしま=現在の三重県北牟婁郡紀北町(みえけん きたむろぐん きほくちょう))に落ち、ついに美濃の斎藤氏は滅亡(めつぼう=ほろびること)しました。信長は小牧城(こまきじょう=現在の愛知県小牧市堀の内(ほりのうち)にある城)から稲葉山城に移り、井ノ口を「岐阜」とあらため大規模(だいきぼ)な城下作りに着手(ちゃくしゅ=とりかかること)しました。11月、足利義秋(あしかが よしあき、=のちの義昭(よしあき)、室町幕府第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)は、朝倉氏(あさくらし)の越前一乗谷(えちぜん いちじょうだに=現在の福井県福井市城戸ノ内町(ふくいけん ふくいし きどのうちちょう))に入りました。
以上諸説あり。