ここでは、1564年~1566年までに、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1564年(永禄(えいろく)七年)長政20歳でお市の方(おいちのかた、1547~1583=織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。天下人(てんかびと= 国じゅうを支配するひと )))と結婚し、11月下旬、嫡男(ちゃくなん=最初の男子)・万福丸(まんぷくまる)が誕生しました。
1565年(永禄八年)5月、三好三人衆(みよし さんにんしゅう=三好長慶(みよし ちょうけい、1522~1564=畿内(きない=現在の大阪府(おおさかふ)の大部分と、京都府(きょうとふ)の南部、兵庫県(ひょうごけん)の南東部、奈良県(ならけん)の全域)・阿波国(あわのくに=現在の徳島県(とくしまけん))の戦国大名)の武将・三好長逸(みよし ながやす)、岩成友通(いわなり ともみち、~1573)、三好政康(みよし まさやす、~1569))と松永弾正久秀(まつなが だんじょう ひさひで、1508~1577=大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん)) の戦国大名)の三名) が、将軍家の二条御所(にじょうごしょ=現在の京都府京都市上京区武衛陣町(かみぎょうく ぶえいじんちょう)にあった城)をおそって将軍・足利義輝(あしかが よしてる、=室町幕府第13代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。足利宗家(そうけ=本家)第20代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))を弑逆(しいぎゃく=けらいなど目下の者が、とのさまなどを殺すこと)したのち、足利義栄(よしひで、1538~1568)を阿波から迎(むか)え、14代将軍の位(くらい)に就(つ)けました。
1566年(永禄九年)2月、細川藤孝(ほそかわ ふじたか、1534~1610=足利(あしかが)の家臣(かしん=けらい)。のちに織田信長、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537~1598=のちの天下人)、徳川家康(とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名・のちの天下人。安祥松平(あんじょう まつだいら)家九代当主。江戸幕府の初代征夷大将軍)の家臣となる)らの努力によって足利義秋(あしかが よしあき、=のちの義昭、室町幕府第15代将軍)は、従五位下(じゅごいげ=地位。正六位上の上、従五位上の下)左馬頭(さまのすけ=馬の飼育・調教の管理職)に任じられました(にんじられました=職務につかせられました)。義秋はまだ将軍になっていないのに、将軍家のみが出せるはずの「御内書(ごないしょ=将軍が発給(出してあたえること)した私文書)」を各地に発給しました。内容は自分の入洛(にゅうらく=都である京都にはいること)への支援(しえん=力をかして助けること)を求めたものでした。これに反応したのが、越後(えちご=現在の新潟県(にいがたけん)本州(ほんしゅう)部分)の上杉謙信(うえすぎ けんしん、1530~1578=越後国の大名。関東官領(鎌倉府(かまくらふ=関東10か国を統治(とうち=まとめおさめること)するために設置した機関)の長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐(ほさ=かたわらにあってその人の仕事を助けること)するために設置された役職、1561~1578)。山内上杉(やまうち うえすぎ)家16代当主)と尾張(おわり=現在の愛知県(あいち けん)西部)の織田信長でした。謙信は、信濃(しなの=長野県(ながのけん)、岐阜県中津川市(ぎふけん なかつがわし)の一部)・武蔵(むさし=現在の東京都(とうきょうと)・諸島を除く、埼玉県(さいたまけん)、神奈川県(かながわけん)の一部)で武田信玄(たけだ しんげん、=甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の守護大名・戦国大名。甲斐武田家第19代当主)と下総(しもふさ=千葉県(ちばけん)北部、茨城県(いばらきけん)南西部、埼玉県東辺、東京都東辺(隅田川(すみだがわ)東岸))で北条氏康(ほうじょう うじやす、=相模(さがみ=神奈川県大部分(北東部を除く))の戦国大名。後北条氏(ごほうじょうし)第2代当主)とにらみあっており、信長は美濃(みのう=岐阜県(ぎふけん)南部)の斎藤龍興(さいとう たつおき、1548~1573=美濃の戦国大名。道三流(どうさんりゅう)斎藤家3代)と交戦中(こうせんちゅう=戦っているさなか)でした。義秋は各武将に和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)を試しみましたが、将軍家でもない義秋に耳をかしませんでした。7月、六角義治(ろっかく よしはる、1545~1612=南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県(しがけん)南部)の戦国大名。六角氏16代当主)五千が、謀反(むほん=主君などにそむくこと)をおこした東近江(ひがしおうみ=現在の滋賀県南東部)・布施公雄(ふせ きみお)の布施山城(ふせやまじょう=滋賀県東近江市布施町にあった城)を攻めました。長政は、布施氏からの要請で三千を率いて救援(きゅうえん=危険にあっている者を助けること)に向かい、船岡山(ふなおかやま=現在の京都府京都市北区(きょうとふ きょうとし きたく)にある山)から進軍(しんぐん=軍をすすめること)し、蒲生野(がもうの=現在の滋賀県の琵琶湖(びわこ)東南部)で戦いましたが、負けてしまい、一時、船岡山に戻りました。8月、信長は美濃に侵攻(しんこう=他国に攻め込むこと)し斎藤軍と戦っていました。浅井氏は信長に斎藤軍の背後(はいご=うしろ)を衝(つ)くよう要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)されましたが、六角軍との交戦中で応えることができず、信長は負けてしまいました(河野島(こうのしま=現在の岐阜県各務原市(かがみがはらし))の戦い)。同月、義秋は矢島(やしま=滋賀県守山市矢島町(もりやまし やじまちょう))から若狭(わかさ=現在の福井県(ふくいけん)西部)の武田義統(たけだ よしずみ、1526~1567=大名。若狭武田氏8代当主)を頼り、9月下旬には、敦賀(つるが=現在の福井県敦賀市)の朝倉景紀(あさくら かげとし、1505~1572=朝倉氏9代当主)のもとに行きました。一方、長政は、戦略(せんりゃく=戦いに勝つための方法)を変え、再度、蒲生野で六角軍と戦い、9月9日、武将・三雲賢持(みくも かたもち、~1566=六角氏のけらい)らを討ち取り、勝利しました(蒲生野合戦)。信長が負けてしまったこの結果は、信長上洛(じょうらく=京都に行くこと)阻止(そし=じゃまをして、相手のしたいようにさせないこと)のため、14代将軍として義栄を擁立(りょうりつ=もりたててある地位につかせること)した三好三人衆が近江の六角と美濃の斎藤に働きかけたからでした。
以上諸説あり。