ここでは、1552年~1553年までに、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1552年(天文(てんぶん)二十一年)1月21日、六角定頼(ろっかく さだより、1495~1552=南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県(しがけん)南部)の戦国大名。六角氏14代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))が病死しました(享年(きょうねん=死んだ時の年齢)五十八)。跡目(あとめ=先代の地位)を継いだ義賢(よしたか、1521~1598=南近江の戦国大名。六角氏15代当主)は、7月になると北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(こねし とりいもとちょう))に攻(せ)めこみました。京極高広(きょうごく たかひろ=北近江の戦国大名。京極氏第15代当主)。別名・高延(たかのぶ))の積極的な江南(こうなん=南近江)侵攻(しんこう=他国や他の領地に攻めこむこと)を撃退(げきたい=攻めてきた敵などを、逆に攻撃(こうげき)して追い払うこと)し、逆に江北(こうほく=北近江)侵攻というてにでました。この年、猿夜叉(さるやしゃ=のちの長政)は、新九郎(しんくろう)と名乗ることになりました。
1553年(天文二十二年)秋、京極氏と六角氏との争いは、浅井氏を巻き込みました。そんなおり、京極高広からの勧誘(かんゆう=すすめ)で、浅井久政(あさい ひさまさ、1524~1573=北近江の戦国大名・浅井氏2代目当主)は、京極氏に付き、観音寺城下(かんのんじ じょうか=現在の滋賀県近江八幡市安土町(おうみはちまんし あづちちょう))にいた新九郎と小野殿(おのどの、1527~1573=新九郎の母)などを小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町伊部(ながはまし こほくちょう いべ)にあった城)に引き取り、六角氏から離反(りはん=それまでつき従っていたものからはなれそむくこと)し、久政は江南へ挙兵(きょへい=兵を集めて戦いを起こすこと)しました。また同時に頼みの京極軍は、六角氏の家臣・小川氏の城・佐和山城(さわやまじょう=現在の滋賀県彦根市(ひこねし)の佐和山にあった城)を落としました。ところが、京極軍は江南侵攻をここでやめてしまい、浅井軍と六角軍との合戦となり、11月、坂田郡(さかたぐん=現在の滋賀県にあった郡)南部の地頭山(ぢとうやま)で、浅井軍は負けてしまいました。同月26日、浅井氏は、六角氏の家臣ということで和議(わぎ=仲直りの相談)がまとまってしまいました。
以上諸説あり。