ここでは、1547年~1551年までに、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1547年(天文(てんぶん)十六年)この年、織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。のちの天下人(てんかびと= 国じゅうを支配するひと )の妹・お市の方(おいちのかた、1547~1583=のちの長政の妻。浅井三姉妹の母)が生まれました。織田信秀(おだ のぶひで、1511~1522=戦国大名)の五女で、母は土田御前(どたごぜん、~1594)でした。
1548年(天文十七年)この年、朝倉義景(あさくら よしかげ、1533~1573=越前国(えちぜんのくに=現在の福井県(ふくいけん)北東部))の戦国大名。越前朝倉氏第11代当主)が越前の国王になりました。またこの年、織田信秀と斎藤道三(さいとう どうさん、1494~1556=美濃国(みののくに=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)の戦国大名)が和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)し、信長は、道三の娘・奇蝶(きちょう、1535~?=濃姫(のうひめ))と結婚しました。
1550年(天文十九年)6月、京極高広(きょうごく たかひろ=北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(こねし とりいもとちょう))の戦国大名。京極氏第15代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。別名・高延(たかのぶ))が美濃に出陣(しゅつじん=戦争に出向く)し、11月には六角(ろっかく)攻(ぜ)めのために南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)に侵攻(しんこう=他の領地に攻(せ)め込むこと)しました。
1551年(天文二十年)2月、高広が、足利将軍家(あしかが しょうぐんけ)や菅領家(かんりょうけ=室町幕府管領のこと)に代わる権力(けんりょく=他人を支配し従わせる力)を揮い(ふるい)、畿内(きない=京都に近い山城国(やましろのくに=現在の京都府南部)・摂津国(せっつのくに=現在の大阪府(おおさかふ)北中部の大半と兵庫県(ひょうごけん)南東部)・河内国(かわちのくに=現在の大阪府東部)・大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん))・和泉国(いずみのくに=大阪府西南部(大和川以南))の五か国)と四国(しこく)にわたる八か国を支配していた三好長慶(みよし ながよし、1522~1564=畿内国と泡国(あわのくに=現在の徳島県(とくしまけん))の戦国大名)と手を結びました。この結果、官領家の細川晴元(ほそかわ はるもと、1514~1563=戦国大名)と手を握った六角義賢(ろっかく よしかた、1521~1598=南近江の戦国大名。六角氏15代当主)との対立はますます深まりました。 3月、尾張(おわり=現在の愛知県(あいちけん)西部)一国の支配を目指していた織田信秀が、今川義元(いまがわ よしもと、1519~1560=駿河国(するがのくに=静岡県(しずおかけん)中部・北東部(大井川(おおいがわ)以東))及び遠江国(おうみのくに=静岡県の大井川(おおいがわ)以西)の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主)との対立の末、病死し、織田一族は家督(かとく=あとつぎ)をめぐって、これ以降、内訌(ないこう=うちわもめ)となりました。
以上諸説あり。