ここでは、1573年に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1573年(元亀(げんき)四年)正月、小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町伊部(しがけん ながはまし こほくちょう いべ)にあった城)で長政の三女・お江が誕生しました。2月武田信玄((たけだ しんげん、1521~1573=武将、甲斐の守護大名(しゅごだいみょう=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・戦国大名。甲斐武田家第19代当主(その家の現在の主人)))家康(いえやす、1543~1616=戦国大名(戦国時代(大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名(だいみょう=ある地域を支配している者))。安祥松平家九代当主。のちの天下人、江戸幕府(えどばくふ=家康が江戸に開いた武家(幕府(将軍(しょうぐん=武士による政権のトップの称号)を長とする武士政権)・将軍・将軍家や有力大名(だいみょう=ある地域を支配している者))政権)初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))の三河野田城(=)を攻略しましたが、3月、武田軍は朝倉義景(あさくら よしかげ、1533~1573=武将・越前国(えちぜんのくに=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))の戦国大名。越前朝倉氏第11代当主)の行動に落胆し(らくたんし=がっかりし)、信州(しんしゅう=現在の長野県)に引き返しはじめました。長政は、朝倉のことが書かれた書状(しょじょう=手紙)を最後に、何も言ってこなくなりました。尚、信玄は、帰国途中に病に倒れ、4月12日、信濃伊奈郡(しなの いなぐん=現在の長野県飯田市(ながのけん いいだし)、伊那市(いなし)、駒ヶ根市(こまがねし)、上伊那郡(かみいなぐん)、下伊那郡(しもいなぐん))の駒場(こまば=現在の長野県下伊奈郡阿智村駒場(あちむら こまば))で亡くなりました(享年(きょうねん=死んだときの年齢)53)。足利義昭(あしかが よしあき、=室町幕府(むろまちばくふ=足利尊氏が京都で創始(そうし=新たに物事をはじめること)した武家政権)第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))は、浅井・朝倉軍に親書(しんしょ=自分で書いた手紙)を与え、信長を殺せとそそのかしてきましたが、7月、自ら二条城(にじょうじょう=現在の京都府京都市上京区五町目町(きょうとふ きょうとし かみぎょうく ごちょうめちょう)にあった城)に壕(ごう=城の周囲にめぐらした堀)をめぐらせ、五千の兵を集め、信長と決戦をしました。信長は京都の町をことごとく焼き払い、山城国(やましろのくに=現在の京都府南部)の牧島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町あった城)に拠った(よった=根拠地(こんきょち=活動の本拠となる地点)としてたてこもった)義昭を攻(せ)めて降参(こうさん)させ、信長は義昭を追放しました。
1573年(天正(てんしょう)元年)義昭の信長包囲網(のぶながほういもう=反織田信長連合)は義景の惰弱さ(だじゃくさ=いくじなさ)と、信玄の死で机上の空論(きじょう の くうろうん=頭の中で考えただけで、実際には役に立たない計画)に終わり、足利将軍家・室町幕府は7月28日に消滅(しょうめつ)しました。長政は、信長を包囲(ほうい=周囲をとりかこむこと)しても、ことごとく粉砕してきたことで、なぜ裏切ってしまったのか、人質にだした万福丸を朝倉でなく、信長にしなかったのか、考えてもわからなかった。一方、木下藤吉郎(きのした とうきちろう、1537~1598=大名。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人)が攻略していた阿閉貞征(あつじ さだゆき、~1582=武将)の山本山城(やまもとやまじょう=現在の滋賀県長浜市高月町西阿閉(たかつきちょう にしあつじ)にあった城)に二万五千石で安堵(あんど=土地の所有権・知行権などを将軍や領主が承認すること)させ、落ちていました。安養寺氏種(あんじょう うじたね、1538~1606)は貞征と手を切り、安養寺村の要害(ようがい=地形がけわしく守りに有利な場所)に立て籠(こも)りました。長政は裏切らない安養寺を城に入るよう源助(げんすけ、1516~1599=藤堂虎高(とうどう とらたか))に命じました。長政の周りを固めるのは、赤尾清綱(あかお きよつな、1514~1573=武将。浅井三将の一人)、海北綱親(かいほう つなちか、1535~1573=武将。浅井三将の一人)、雨森清定(あめのもり きよさだ、~1587=武将。浅井三将の一人)の老臣(ろうしん=年をとった家来)とその一族、そして母の生家(せいか=実家)である井口(いぐち)一族、浅井の親戚縁者(しんるいえんじゃ=血筋や縁組みでつながる人々)、わずかの近臣(きんしん=主君(しゅくん=自分の仕えている君主・殿様など)のそば近く仕える家来)、近習(きんじゅ=主君のそば近くに仕える者)たち、二千か千、父・久政(ひさまさ、1526~1573=武将、北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(ひこねし とりいもとちょう))の戦国大名、浅井代2代目当主)の手勢(てぜい=手下の兵)千五百を加えて三千五百余、朝倉勢は斎藤刑部(さいとうぎょうぶ)、小林彦六左衛門(こばやし ひころくさえもん)らの兵五百にすぎませんでした。長政は、一乗谷(いちじょうだに=現在の福井県福井市城戸ノ内町(ふくいけん ふくいし きどのうちちょう))にいる義景に、再三(さいさん)援軍(えんぐん=たすけの軍隊)の要請をしていましたが、同族筆頭の景鏡(かげあきら、1525~1574=武将)と家臣(かしん=けらい)筆頭の魚住景団(うおずみ かげかた、1528~1574=武将)に出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)を命じたが、疲労を理由に断られていました。重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)たちの多くは、信長には勝てない理由と一部の側近(そっきん=君主の近くに仕える人)を偏愛(へんあい=かたよって愛すること)し、独断専行(どくだんせんこう=自分だけの考えで決めて、勝手に物事を行うこと)が目立つことも反発の理由でした。義景は浅井を見殺しには出来ませんでした。やもなく自ら二万余の軍勢(ぐんぜい=軍隊)を率いて、7月17日、一乗谷を出て18日に敦賀、近江(おうみ=現在の滋賀県)に入ったのは8月6日でした。義景は長政とお市の方に万福丸(まんぷくまる、1564~1573=長政の嫡男(ちゃくなん=あととり))を合わせたく、万福丸を伴っていました。そして伊香(いか=現在の滋賀県長浜市の一部)の陣所(じんしょ=陣営(じんえい=戦場で軍勢が集結して待機している所))から万福丸を小谷城に送り出しました。義景は近江に来て驚きました。小谷城は完全に包囲され、山本山城も月ヶ瀬城も手に落ち、長政は孤立していました。期待していた一向宗も門徒も信長の苛烈な攻撃で、影を沈めていました。10日、朝倉は小谷城の北方、田部山(たべやま=滋賀県長浜市木之本町田部(きのもとちょう たべ))、本之本(きのもと=滋賀県長浜市の一部)などに陣(じん=軍隊の集結する所)を構えました。しかし、焼尾砦(やけおとりで=滋賀県長浜市余呉町文室(よごちょう ふむろ))の城将・浅見道西(あさみ どうせい=武将)が信長に内応(ないおう=味方を裏切ってひそかに敵と通じること)してしまい、焼尾砦が大獄城(おおずくじょう=現在の滋賀県長浜市小谷上山田町(おだにかみやまだちょう))の後方防御(ぼうぎょ)の要(かなめ=大切なところ)であったため、大獄城の斎藤(さいとう)、小林(こばやし)といった諸将は城を捨て小谷城に戻って長政とともに戦うことを選びました。信長は、丁野城(ようのやまじょう=現在の滋賀県東浅井郡湖北町丁野(ひがしあざいぐん こほくちょう ようの)にあった城)、中島城(なかじまじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町山脇(やまわき))など次々と落とし、徐々に小谷城に追(せ)りました。こうした織田軍の勢いに義景は13日、陣営を撤収(てっしゅう=軍隊を引きあげること)し越前(えちぜん=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市)目指して退却(たいきゃく=後退)し始めました。しかし信長は、朝倉軍を追撃(ついげき=逃げる敵を追いかけて攻撃すること)し、近江と越前の境にある刀根坂(とねざか=現在の福井県敦賀市刀根)で追いつき、14日、朝倉軍を破りました。義景は一乗谷まで逃げましたが、17日、織田軍に攻められ、一乗谷も捨て大野(おおの=現在の福井県大野市)に落ち延びましたが、結局8月20日、賢松寺(けんまつでら=現在の福井県大野市にあった寺社)で自刃(じじん=刀物で自分の生命を絶つこと)し、越前朝倉氏は滅び去りました。26日、虎御前山に戻った信長は、降伏の使者を城内に送り、城将の何人かが、これに応じていました。難攻不落(なんこうふらく=攻撃するのがむずかしく、たやすくせめおとせないこと)の小谷城もほぼ占拠されてしまいました。浅井久政はこの状況に自刃してしまいました(享年)。信長は、不破光治(ふわ みつはる=武将)に、長政に投降(とうこう=戦うことをやめて、降参すること)するよう伝えに城内に行かせました。光治は信長の投降要求を伝えましたが、長政は、光治に伝えました。「義兄とは三年に及ぶ戦いで、多くの家臣が亡くなり、祖父が築いた浅井家をつぶし、父も失って、おめおめと生きることはできない」と伝え断りました。光治は信長の基にもどり、そのことを伝えました。しかし、再度説得を命じ、城内に行かせ説得しましたが、やはり長政は断りました。ただ長政は、ひとつお願いをしました。「義兄にお市と三人の娘をお返しする」ことでいた。光治はそれを引き受け、お市の方と三人の娘と藤堂与吉(とうどう たかとら、=武将・大名)や片桐助作(かたぎり すけさく=武将・大名)らを連れ城を後にしました。万福丸は木村吉喜内之介(きむら きないのすけ)に託し、次男・万寿丸(まんじゅまる)は、寺の住職に預けられました。この時点で、長政の兵は二百に減っていました。そしてついに黒金御門(くろがねごもん)が破られ、藤吉郎を先頭に柴田勝家(しばた かついえ、1522~1583=武将・戦国大名)、前田利家(まえだ としいえ、1538~1599=武将・戦国大名)、佐々成政(さっさ なりまさ、1536~1588=武将・大名)らの軍勢が乱入しました。長政は太刀(たち=かたな)を抜き、斬(き)りまくりました。しかし、もはや限界でした。赤尾清綱(あかお きよつな、1514~1573=武将)が敵兵(てきへい=敵軍(てきぐん)の兵)に捕らえられ、悲痛な声で「拙者(せっしゃ=)の屋敷へ!」と叫びました。長政は、浅井日向守(さじ ひゅうがのかみ)と赤尾屋敷(あかおやしき)に逃げました。長政は中島新兵衛(なかしま しんべえ)、中島九郎次郎(なかじま くろうじろう)、木村太郎次郎(きむら たろうじろう)、脇坂左介(わきざか さすけ)や浅井阿菊(あさい あきく)らの近習が前に立ちふさがり、孫右衛門(まごえもん、=片桐直貞(かたぎり なおさだ)。片桐且元(かたぎり かつもと、1556~1615)の父)や源助(げんすけ、1516~1599=藤堂虎高(とうどう とらたか))も支えんとしましたが、雑兵(ざっぴょう=身分の低い兵)たちに組み敷かれ(くみしかれ=押し倒され押さえつけられ)てしまいました。そして9月1日、長政は奥の座敷に入り、浅井日向守(木村太郎次郎?)に介錯(かいしゃく=切腹する(せっぷくする=腹を切る)人のそばにつき、首を切ること)を命じ、自刃しました(享年29)。藤吉郎が座敷に入って長政の首をみて残念がりました。藤吉郎は信長のもとに戻り、長政の最期の模様を聞き、自分の後継者と考えたこともあった義弟の首には一目も見ようとせず、小谷城に入城し、生け捕った重臣のそれぞれの言動でほぼ討首(うちくび=首を切り取ること)になりました。4日、信長は藤吉郎をすべてを任せ佐和山(さわやま=現在の滋賀県彦根市(ひこねし)にある山)を出立(しゅったつ=出発)しました。虎御前山を下ったところで、ひとりの男が伏して(うして=低い姿勢で頭をさげて)いました。その男は安養寺でした。信長に「屋敷に籠って(こもって=入って守って)いた」ことを伝えたところ、信長は、安養寺に家臣にならないかと問いました。しかし、安養寺は亡き主君(長政)の弔い(とむらい=人の死を悲しみ、遺族を慰(なぐさ)めること)をしたく、ここに来たことを伝えました。信長は、「長政もそちのような家臣をもって幸せだったであろう」と返し、馬に乗り、そのまま立ち去りました。
以上諸説あり。