ここでは、1572年に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1572年(元亀(げんき)三年)正月、長政は、横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市堀部町・石田町(しがけん ながはまし ほりべちょう・いしだちょう))にあった城 )の 木下藤吉郎(きのした とうきちろう、1537~1598=大名。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人)が新年の賀(が= 喜び祝うこと)をのべるため、岐阜に赴いた(おもむいた=向かった)隙(すき)を狙(ねら)い、横山城の攻撃(こうげき)に向いました。横山城には軍師(ぐんし=大将につき従い、軍事に関する計画を立て、作戦を考える人)の竹中重治(たけなか しげはる、1544~1579=武将(ぶしょう=武士の大将)。通称・半兵衛(はんぺえ)))が守っていました。長政は、力で攻(せ)めましたが、落城(らくじょう=城を攻め落とすこと)寸前に、箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦(まいばらし みのうら)にあった城)、鎌刃城(かまはじょう= 滋賀県米原市番場(ばんば))などから援軍(えんぐん=たすけの軍隊)が来たため、横山城を落とすことが出来ませんでした。7月19日、織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた)織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと))が信忠(のぶただ、1557~1582=武将・大名。勝幡織田家6代当主)を伴い、五万の大軍を率いて、近江(おうみ=現在の滋賀県)にやってきました。小谷(おだに=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(ながはまし こほくちょう いべ))まで侵攻(しんこう=敵地に侵入(しんにゅう)してせめること)し、虎御前山(とらごぜんやま=現在の滋賀県長浜市中野町(なかのちょう))と雲雀山(ひばりやま=現在の滋賀県東浅井郡湖北町(ひがしあざいぐん こほくちょう))に本陣(ほんじん=軍の大将がいる陣(じん=軍団))を構えました。長政は、朝倉義景(あさくら よしかげ、1533~1573=武将・越前国(えちぜんのくに=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))の戦国大名。越前朝倉氏第11代当主)に援軍を頼み、最初に狙(ねら)われた阿閉貞征(あつじ さだゆき、1528~1582=武将)の山本山城(やまもとやまじょう=現在の滋賀県長浜市高月町西阿閉(たかつきちょう にしあつじ)にあった城)に安養寺氏種(あんようじ うじたね、1538~1606)二百と山本山城の麓(ふもと=山の下の方の部分)の村の領民(りょうみん=ある領地内に住んでいる人たち)とともに城の守りにつきました。虎御前山は、信長の軍で見る見るうちに変わりました。山の北側の麓四百メートル上に柴田勝家(しばた かついえ、1522~1583=武将・戦国大名)の砦(とりで=本城から離れて設けられた小さい城)、南斜面には木下藤吉郎の砦、東の別所山(べっしょやま=現在の滋賀県長浜市余呉町小谷(よごちょう おおたに))には佐久間信盛(さくま のぶもり、1528~1581=武将)の砦、その南には堀秀政(ほり ひでまさ、1553~1590=武将・大名)、滝川一益(たきがわ かずます、1525~1586=武将・大名)、丹羽長秀(にわ ながひで、1535~1585=武将・大名)の砦を造営(ぞうえい=家などを建てること)していました。そして信長は、姉川の合戦(あねかわのかっせん=現在の滋賀県長浜市野村町(のむらちょう)付近で織田・徳川軍と浅井・朝倉軍で行われ織田徳川軍が勝利した合戦)と同じ場所、堀秀政の砦の北斜面を平にして本丸(ほんまる=城郭(城の周囲に設けた囲い)で、中心をなす一区画)を造営(ぞうえい=家などを建てること)しました。7月21日、信長軍の攻撃が始まりました。佐久間、柴田、木下らが清水谷(しみずだに=現在の滋賀県長浜市小谷郡上町(おだにぐじょうちょう))に追(せま)り、土塁(どるい=土を盛り上げて作った壁)を乗り越えて激しい戦いになり、翌日、藤吉郎が山本山城を攻めました。藤吉郎の作戦は調略(ちょうりゃく=策略(さくりゃく=人をおとしいれること)をめぐらして敵をまかしたり内通(ないつう=うらぎき)させたりすること)でした。藤吉郎は城の麓に火を放ちましたが、長政が討(う)ってでないことから、付近の寺を次々と襲(おそ)い、残らず焼き払い、そして草野の谷(くさののたに=現在の滋賀県長浜市草野(くさのちょう)周辺)でも起きました。ここには大吉寺(だいきちじ=現在の滋賀県長浜市野瀬町(のせちょう)にあった寺社)と醍醐寺(だいごじ=現在の滋賀県長浜市醍醐町(だいごちょう)にある寺社)があり、特に大吉寺には五十もの坊がおり、なおかつ越前から応援に来ていた一向宗(いっこうしゅう=浄土真宗)の門徒(浄土真宗本願寺派の坊主や農民、商工業者、武士など)が籠城(ろうじょう=城にこもり敵と戦うこと)していました。しかしそれでも長政は動きませんでした。信長は比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市(おおつし)西部と京都府京都市(きょうとふ きょうとし)北東部にまたがる山)の時のように焼き払われ、集落もことごとく焼き尽くされ、長政は領民を守れない武将と評判が上がりましたが、それにも耐え、朝倉軍の援軍を待っていました。8月2日、ようやく朝倉軍一万五千が到着し、小谷は朝倉の軍旗で覆われ、朝倉の出城(でじろ=本城の外、国境などの重要な場所に築いた城)のようになっていました。8月中旬、信長の軍勢(ぐんぜい=軍隊)が虎御前山から小谷を目指し、一方、長政も一向宗を集め、義景と山を下りました。小谷城と虎御前山の周辺は一触即発(いっしょくそくはつ=ちょっとしたきっかけで大事件に発展しそうな危険なさま)、戦いの機運(きうん=ちょうどよい時機)は盛り上がりました。しかし事態が急変しました。朝倉の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)・前波吉継(まえば よしつぐ、1524~1574=武将)親子が突如(とつじょ=とつぜん)、白旗(そろはた=敵に対して自ら敗れたことを認め、敵にしたがうこと)を掲(あ)げて織田陣営(じんえい=戦場で軍勢が集結して待機している所)に駆け込み(かけこみ)、裏切ったのでした。そして、翌日にも、朝倉勢の富田長繁(とだ ながしげ、1551~1574=武将)、増井甚内(ますい じんない)、毛屋猪介(もや いのすけ)が寝返りました。朝倉軍の士気(しき=戦いに対する意気込み)は、がた落ちでしました。そのうえ、織田軍から投降(とうこう=戦うことをやめて、降参すること)の矢文(やぶみ=書状を結びつけて討たれた矢)が何百、何千と飛んできて投降者は後を絶ちませんでした。義景は、その状態に我慢できなくなり、家臣(かしん=けらい)・池田隼人助(いけだ はやとのすけ、~1572)が白旗を掲げて敵陣(敵の陣営(じんえい=戦場で軍勢)に向いたとき、隼人助らを射殺しました。朝倉にはまだ強兵(きょうへい=強い兵)、竹内三之助(たけうち さんのすけ)、上村内蔵助(うえむら くらのすけ)がいました。8月28日、二人は雑兵(ざっぴょう=身分の低い兵)になりすまし、虎御前山の柴田勝家の砦に松明(たいまつ=マツのやにの多い部分をタケやカヤ、枯れ草などと束ね,その先端に点火したもの)を投げ入れ放火し砦は混乱し、それに乗じて二人は次々と火を付け、織田勢は大混乱に陥ちいり(おちいり=よくない状態になり)、火は信長の館まで及びました。浅井は、安養寺が手勢(てぜい=手下の兵)を連れ、虎御前山で逃げ惑う雑兵たちを殺し、引き揚げ、これを期に出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)すると思われましたが、何故か長政は動かず、折角の機会を失ってしまいました。戦争は膠着状態(こうちゃくじょうたい=物事が進まず行きづまっている状態)に陥りました。9月12日、信長は突然比叡山延暦寺(えんりゃくじ=現在の滋賀県大津市坂本本町(おおつし さかもとほんまち)にある寺社)を包囲すると全山の焼き討ち(やきうち=火をかけて攻め込むこと)と僧兵(そうへい=武装(ぶそう)した下級僧侶(そうりょ=お坊さん)をいう)やその家族を撫で切り(なできり=たくさんの人を、片端から切り捨てること)にするよう命じ、大虐殺(だいぎゃくさつ=むごい方法で大量に人を殺すこと)を行いました。この「比叡山焼き討ち」を聞いた 甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の 武田信玄 (たけだ しんげん、1521~1573=武将、甲斐の守護大名(しゅごだいみょう=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・戦国大名。甲斐武田家第19代当主) と北条氏政(ほうじょう うじまさ、1538~1590=相模国(さがみのくに=現在の神奈川県の大部分(北東部を除く))の戦国大名・武将)が動き始めました。16日、武田信玄が動き出したとの報が信長に入り、急遽(きゅうきょ)、岐阜(ぎふ=現在の岐阜県)に帰国しました。29日、先鋒(せんぽう=軍隊の一番先に立って進むもの)として山県昌景(やまがた まさかげ、1524~1575=武将)が五千を率いて下伊那(しもいな=現在の長野県下伊那郡(ながのけん しもいなぐん))から三河(みかわ=現在の愛知県東部)東部に出る経路で出陣し、10月3日、甲府(こうふ=現在の山梨県甲府市)を出ました。武田軍は、只来城(ただらいじょう=現在の静岡県浜松市天竜区只来(しずおかけん はままつし てんりゅうく ただらい)にあった城)を落とし、二俣城(ふたまたじょう=現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣(くふたまたちょう ふたまた))に攻め入り、11月19日に落としました。そして三河の諸城(しょじょう=おもだった城)を落とし、家康 (いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家九代当主。のちの天下人、江戸幕府(えどばくふ=家康が江戸に開いた武家(幕府(将軍(しょうぐん=武士による政権のトップの称号)を長とする武士政権)・将軍・将軍家や有力大名(だいみょう=ある地域を支配している者))政権)初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))の居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)・浜松城(はままつじょう=現在の静岡県浜松市中区(なかく)にある城)に迫りました。一方、長政は、織田に寝返っていた元家臣・宮部継潤(みやべ けいじゅん、1528~1599=武将・大名)が守る宮部城(みやべじょう=現在の滋賀県長浜市宮部町にあった城)を浅井井規(あさい いのり、~1573)に攻撃させ、同時に虎御前山砦と宮部城の間に築かれた築地堀(ついじべい=どろをつき固めて作った塀(へい))を破壊しようと試しみましたが、失敗におわるが、武田軍が来るまでの時間稼ぎでした。12月21日、武田軍は、東三河(ひがしみかわ=現在の愛知県の東部)に侵攻し、無傷のまま浜松城に迫りました。家康のもとには、佐久間盛信、滝川一益、平手汎秀の三人が三千の援軍は来たが、家康一万一千、合わせて一万四千で、武田軍三万五千と戦うことになりました。この戦い(三方ヶ原合戦())で案の定、家康は大敗しました。この報に足利義昭 (あしかが よしあき、=室町幕府第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍)) は喜び、京都にいた信玄の父・武田信虎(たけだ のぶとら、1493~1574=甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主 )に信長追討(ついとう=追いかけて討ちとること)の出陣を促し(うながし=さいそくし)、七十八歳の御老体でありながら信虎は応じました。義昭はあからさまに信長への反旗を翻した(はんきをひるがえした=今まで従っていた主君などを裏切った)のでした。信長は、ここで反旗を翻されると武田軍との決戦に差し支えると判断し、義昭と和睦を結びました。長政は、これを期に虎御前山を攻めましたが、義景が動かず奪還(だっかん=うばいかえすこと)はできませんでした。義景は積雪で不通になる前に一乗谷(いちじょうだに=現在の福井県福井市城戸ノ内町(ふくいけん ふくいし きどのうちちょう))に帰国することを考えていました。長政との考えに差がありました。その一方、羽柴藤吉郎(はしば とうきちろう、1537~1598=木下から改名。大名。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人)は信長の命で、安養寺が籠城していた山本山城を、領民たちに気を使うなどして、戦わずして攻略(こうりゃく=いろいろな手段を使って相手の気持ちをくずすこと)する作戦を始めていました。12月3日、義景は雪を理由に越前に帰国してしまいました。
以上諸説あり。