浅井長政(12/17)(1570年1月~5月)

ここでは、1570年1月~5月に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1570年(永禄(えいろく)十三年)正月23日、織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名(だいみょう=ある地域を支配している者))。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと))が、足利義昭(あしかが よしあき、=室町幕府第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))に向け「五ヶ条覚書(ごかじょうおぼえがき=将軍が諸国に御教書(みょうぎょうしょ=位階(いかい=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官僚(かんりょう=官職(かんしょく=律令制における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方)についている人)の序列)三位以上の公卿(くげ=朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行うところ)に仕える人)が出した文書)を出す場合、信長に了解を得ねばならないなど、信長が将軍を自分の傀儡(かいらい=あやつり人形)であると宣言したに等しい内容)」を送り、徒手空掌(としゅくうけん=頼るものがなく、自分の身一つであること)であった義昭は承諾しました。また同時に、畿内(きない=京都(きょうと)に近い、山城(やましろ=現在の京都府(きょうとふ)南部)・大和(やまと=現在の奈良県(ならけん))・河内(かわち=大阪府(おおさかふ)東部)・和泉(いずみ=現在の大阪府南西部(大和川(やまとがわ)以南))・摂津(せっつ=現在の大阪府北中部の大半、兵庫県(ひょうごけん)南東部)の五か国)近隣(きんりん=となり近所)の二十一ヵ国におよぶ諸大名(しょだいみょう=あちこちの多くの大名(だいみょう=多くの領地を所有した者))、諸将(しょしょう=多くの大将)に対して「禁裏御修理(きんりごしゆり=天皇の住居の修理)、武家御用(ぶけごよう=幕府(ばくふ=征夷大将軍を長とする武家(ぶけ=幕府・将軍・将軍家や有力大名(だいみょう=ある地域を支配している者)政権)の用事)、その他天下いよいよ静謐(せいひつ=世の中がおだやかに治まること)のために、二月中旬までに上洛して(じょうらくして=京都に行き、朝廷と幕府を長とする武家の政権)とに礼参(れいさん=感謝の気持ちを表すための言葉や金品を贈(おく)ること)すること」を促す(うながす=さいそくする)触書(ふれがき=告げ知らせるための文書)を送りました。触書の題名には「信長上洛につき在京あるべき衆中の事(大勢の仲間へ、信長が京都に行くので、必ず京都に来ること)」と書かれ、続いて「徳川三河守殿(とくがわみかわのかみどの)」と主たる(しゅたる=おもな)武将(ぶしょう=武士の大将)の名前が書かれ、その後に従うべき武将として「三河(かわち=現在の愛知県東部)・近江(おうみ=現在の滋賀県)諸侍(しょさむらい=多くの武士)中(ちゅう=様)」というように小さく割書されていました。近江の武将部分は、なんと「京極殿(きょうごくどの)」が主たる武将とあって、続く小さな割書に「同(どう=おなじく)浅井備前(びぜん=現在の岡山県東部)、同尼子(あまご)、同佐々木(ささき)、同木村(きむら)、同江州南(こうしゅうみなみ=現在の滋賀県南部)諸侍中」とありました。つまり、長政は、京極高佳(たかよし、1508~1581)が率(ひき)いる近江勢の中の一人という扱いにされたのでした。これは滅びた京極がこれでは配下ということになる。この扱いに喜右衛門(きえもん、1531~1570=遠藤直経(えんどう なおつね))らは離反(りはん=離れそむくこと)の声があがりましたが、長政は、信長離反をするような軽薄さ(けいはくさ=言葉や態度が軽々しくて、思慮(しりょ=いろいろと思いめぐらした考え)の深さや誠実さが感じられないこと)はありませんでした。一方、義昭は、信長の覚書を承諾した裏で反信長(はん のぶなが=信長を敵対するもの)とみられる大名、石山本願寺、長島の一向衆徒に向けて「早々に上洛して信長を討つよう、甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の武田(たけだ)を軸に、信長包囲網(ほういもう=人や国などの動きを封じるために、組織だって周りを取り囲むこと)を敷くように」と御内書(ごないしょ=将軍(しょうぐん=武士による政権のトップの称号)家あるいは上級武家が出した文書)を送りました。この御内書は長政にも送られました。この年、長政に三女・初(はつ、1570~1633=常高院(じょうこういん))が誕生しています。4月20日、信長が武藤友益(むとう ともます=若狭(わかさ=現在の福井県(ふくいけん)南部(嶺南(れいなん)地域)から敦賀市(つるがし)を除いた部分)武田氏の家臣(かしん=けらい))の若狭をせめるため、三万余りの兵を率いて京都をでました。

1570年(元亀(げんき)元年)4月23日ごろ、長政は、先年から着手していた小谷山頂(おだにやまさんちょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(しがけん ながはまし こほくちょう いべ)にある伊吹山地に属する山の頂上)に新しい城、大獄城(おおずくじょう)を完成させました。信長は同じころ、若狭に達し、熊川城(くまかわじょう=現在の福井県三方上中郡若狭町熊川(ふくいけん みかたかみなかぐん わかさちょう くまがわ)にあった城)に入り、そして佐柿国吉城(さがき くによしじょう=福井県美浜町佐柿(みはまちょう さがき)にあった城)に入城(にゅうじょう=城に入ること)しました。4月25日、武藤のいる西南には進まず、東に進撃し、妙顕寺(みょうけいじ=現在の福井県敦賀市元町(つるがし もとまち)にある寺院)に本陣(ほんじん=大将のいる陣)を布きました(しきました=配置しました)。これは明らかに朝倉(あさくら)攻撃(こうげき)の姿勢でした。信長は、最初から朝倉討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと)を決めていたのでした。その日のうちに朝倉の支城(しじょう=本城のほかに領内各地に設けた城)・天筒山城(てづづまやまじょう=福井県敦賀市泉(しみず)の天筒山にあった城)で寺田采女(てらだ うねめ=朝倉氏の家臣)ら千五百人を滅ぼし天筒山城を落としました。翌日には朝倉景恒(かげつね、~1570=朝倉氏の家臣)の金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町にあった城)も落としました。そして信長は、越前(えちぜん=現在の福井県北部)・朝倉の本拠(ほんきょ=本拠地)一乗谷(いちじょうだに=現在の福井県福井市城戸ノ内町(きどのうちちょう)にあった城)に向けて木ノ芽峠(きのめとうげ=現在の福井県の嶺北(れいほく)と嶺南(れいなん)をへだてる峠)を進行しました。それに対し、朝倉は一万を率いて一乗谷を出て織田軍討伐に向いました。26日、長政に、信長が妙顕寺に本陣を布いたことを聞き、信長との約束(もしも朝倉と合戦に至るような事態が生じたとしたら、必ず事前に浅井の了解を得たうえで行動に移すこと)を破られたことで離反を決め、信長を討(う)つため、五千の兵を率いて越前に向いました。28日、信長は、長政の離反を知り、このままでは挟み撃ち(はさみうち)になるのを恐れ、明智光秀(あけち みつひで、~1582=大名)、池田勝正(いけだ かつまさ、1539~1578=大名、摂津池田氏当主(とうしゅ=その家の現在の主人))、そして木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人)が殿軍(でんぐん=最後尾につく部隊)に当たり、信長は戦場から離脱(りだつ=ある状態から抜け出すこと)し、殿軍も朝倉勢が追撃に移ろうとしなかったため、この困難(こんなん)な状況を脱し、京都に戻りました。この時期、武田信玄(たけだ しんげん、1521~1573=甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐武田家第19代当主)は義昭を通じて、浅井との同盟、朝倉との連携(れんけい=互いに連絡をとり協力して物事を行うこと)を策し(さくし=信長を倒すための計画した)書状を送り、また、駿河(するが=現在の静岡県(しずおかけん)中部)掌握(しょうあく=自分の思いどおりにすること)、旧今川(いまがわ)の水軍、さらに伊勢(いせ=現在の三重県(みえけん)の大半)の海賊衆(かいぞくしゅう)である向井(むかい)一族をも迎(むか)えることに成功していました。徳川家康(とくがわ いえやす、=戦国大名。安祥松平家(あんしょうまつだいらけ)九代当主。のちの天下人、江戸幕府の初代征夷大将軍)は、信玄の駿河掌握を脅威(おびやかされて感じる恐ろしさ)であったため、対抗措置(そち=処置)として岡崎城(おかざきじょう=現在の愛知県岡崎市康生町(あいちけん おかざきし こうせいちょう)にあった城)から東にある浜松城(はままつじょう=現在の静岡県浜松市中区(なかく)にある城)に居城(きょじょう=)を移しました。信長は、岐阜(ぎふ)へ帰還(きかん=帰ること)するため、帰路(きろ=帰り道)の通過道である南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)の六角承禎(ろっかく じょうてい、1521~1598=南近江の戦国大名。六角氏15代当主)に和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)を申しでますが拒否(きょひ=要求などを聞き入れないで断ること)され、5月6日、六角勢が守山城(もりやまじょう=現在の愛知県名古屋市守山区市場(なごやし もりやまく いちば))をせめ、美濃(みの=現在の岐阜県南部)の稲葉一鉄(いなば いってつ、1515~1589)など旧斎藤(さいとう)家臣団と大規模な戦闘(せんとう)が行われました。5月9日、信長は二万の兵を率いて京都を出ました。信長は、承禎と和睦の道を探りましたが、六角は引きませんでした。そこで信長は、守佐山(うさやま=現在の滋賀県大津市南滋賀町(おおつしみなみしがちょう))に砦(とりで=小さい城)を築いて森可成(もり よしなり、1523~1570)を置き、さらに永原城(=現在の滋賀県野洲市永原(やすし ながはら)にあった城)に佐久間盛信(さくま のぶもり、1528~1581)、長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市長光寺町(おうみはちまんしちょうこうじちょう)にあった城)に柴田勝家(しばた かついえ、1522~1583=戦国大名)、安土城(あづちじょう=現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦(あづちちょうしもといら)にあった城)に中川重政(なかがわ しげまさ)を置いて守らせました。六角勢は、承禎の威光(いこう=人をおそれさせ、従わせる力や勢い)に加え浅井軍の後押しもあって二万になりました。長政は、鯰江城(なまずえじょう=現在の滋賀県東近江市鯰江町(ひがしおうみし なまずえちょう)にあった城)に自軍の一部を割(さ)いて兵を送り、南近江の豪族一揆(ごうぞくいっき=大きな富や勢力を持つ一族がおこした暴動)を扇動(せんどう=気持ちをあおり、ある行動を起こすようにしむけること)して、信長の帰路を挟撃(きょうげき=はさみうち)作戦に出ました。一方、信長は、あくまで攬乱(かくらん=混乱させること)作戦に出ました。そして、かつて六角氏の家臣団を形成していた蒲生賢秀(がもう かたひで、1534~1584)、布施公保(ふせ きみやす)らを取り込み危険な江南(こうなん=南近江)を避(さ)けて、千草峠(ちぐさとうげ=近江永源寺から伊勢の千草に向うルート)を越える岐阜への道を選びました。5月19日、峠の難所に差し掛かったところで、承禎のさしがねで杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう、~1573)が、信長に銃撃しましたが失敗に終わり、信長は九死に一生を得、5月21日に岐阜に戻りました(金ヶ崎の退き口=かねがさきののきち、金ヶ崎の戦い、金ヶ崎崩れ)。



以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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