ここでは、1569年に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1569年(永禄(えいろく)十二年)正月5日、三好三人衆(みよし さんにんしゅう=三好長慶(みよし ちょうけい、1522~1564=畿内(きない=現在の大阪府(おおさかふ)の大部分と、京都府(きょうとふ)の南部、兵庫県(ひょうごけん)の南東部、奈良県(ならけん)の全域)・阿波国(あわのくに=現在の徳島県(とくしまけん))の戦国大名)の武将・三好長逸(みよし ながやす)、岩成友通(いわなり ともみち、~1573)、三好政康(みよし まさやす、~1569))と松永弾正久秀(まつなが だんじょう ひさひで、1508~1577=大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん)の戦国大名)の三名)の軍勢が京都・六条本圀時(ろくじょう ほんごくじ=現在の京都府京都市山科区(やましなく)にある寺院)の足利義昭(あしかが よしあき、=室町幕府第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号))を襲(おそ)いましたが、秀吉(ひでよし、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人))からの知らせで、あまりに早い織田信長( おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと )入洛(にゅうらく=京都に入ること)で本圀時を包囲(ほうい=周囲をとりかこむこと)していた三好三人衆の軍勢は撤退しました(本圀時の変)。27日、将軍には防備の整った城が必要と信長は思い、将軍の館を造るべく、二条の旧邸(にじょうのきゅうてい=現在の京都市上京区武衛陣町(かみぎょうく ぶえいじんちょう)にあった城)を修復する作業に入り、長政も三千の人夫(じんぷ=力仕事にたずさわる労働者)を出して、2月27日から工事に加わりました。4月14日、修築(しゅうちく)が完了(かんりょう=完全に終わること)し、義昭はここに移りました。8月、信長が南伊勢(みなみいせ=現在の三重県(みえけん)北中部)に出兵(しゅっぺい=軍隊を差し向けること)し、北畠具教(きたばたけ とものり、1528~1576=大名。伊勢国北畠家第8代当主)の居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)・大河内城(おかわちじょう=現在の三重県松坂市大河内町(まつさかし おかわちちょう)にあった城)を取り囲み、10月に北畠氏は降伏(こうふく=降参)しました(大河内城の戦い)。信長は、具教の養子(ようし=本当の子以外の子を本当の子と同一地位としてむかえること)として、信長の次男・茶筅丸(ちゃせんまる、1558~1560=のちの北畠具豊(とよとも)、伊勢北畠家第10代当主、織田信雄(おだ のぶかつ))を北畠氏に入れ、伊勢(いせ=現在の三重県北中部、愛知県弥富市(あいちけん やとみし)の一部・愛西市(あいさいし)の一部、岐阜県海津市(ぎふけん かいづし)の一部)全体が信長の手に落ちました。これで信長は、尾張(おわり=現在の愛知県西部)五十万石、美濃(みの=現在の岐阜県南部)五十四万石、伊勢五十八万石のあわせた百七十万石近い大大名となり「天下布武(てんかふぶ=天下統一?)」が手に届きそうでした。
以上諸説あり。