ここでは、1568年に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1568年(永禄(えいろく)十一年)4月、足利義秋(あしかが よしあき、=のちの義昭(よしあき)、室町幕府第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号))は元服し、「義昭」に改名しました。義昭は、越前(えちぜん=福井県(ふくいけん)北東部)の朝倉氏(あさくらし)に厄介(やっかい=世話)になっていました。そして自分の上洛(じょうらく=京都に行くこと)を要請(ようせい=必要なこととして、強く願い求めること)していましたが、朝倉義景(あさくら よしかげ、1533~1573=越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代の当主(とうしゅ=その家の現在の主人))は、のらりくらりとかわしていました。義昭はその態度に業を煮していました(ごうをにやしていました=思うように事が運ばずいらだっていました)。そしてその傍(かたわ)らにいた家臣(かしん=けらい)の明智光秀(あけち みつひで、~1582=大名)から細川藤孝(ほそがわ ふじたか、1534~1610=大名)が織田(おだ)へ橋渡しを働きかけました。織田信長 (おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと) は昨年、来年になったら義昭の上洛に力を貸す約束をしていたので、それに答えました。7月16日、義昭は越前を発(た)ちました。義景は二千の兵で越前国境まで送りました。義昭一行は危険な六角氏(ろっかくし)の南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県(しがけん)南部)を急いで通り過ぎました。余呉庄(よごしょう=現在の滋賀県長浜市余呉町(しがけん ながはまし よごちょう))で浅井久政(あさい ひさまさ、1526~1573=北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本(ひこねし とりいもと))の戦国大名。浅井氏2代目当主)に出迎(むか)えられ、小谷城(おだにじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(こほくちょう いべ)にあった城)に入り6日ほどすごし、織田氏から不破光治(ふわ みつはる)、村井貞勝(むらい さだかつ、~1582)らの出迎えがきて、長政の家臣・喜右衛門(きえもん、1531~1570=遠藤直経(えんどう なおつね))五百の護衛(ごえい=つきそって守ること)を付け、義昭一行を送らせました。一行は無事に北近江と美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)の境まで送り届け、信長の家臣・菅屋長頼(すがや ながより、~1582)、内藤庄助(ないとう しょうすけ)、柴田修理亮(しばた しゅりのすけ、1522~1583=戦国大名)に引き継ぎ、7月25日、立政寺(りゅうしょうじ=現在の岐阜県岐阜市西荘(にしのしょう)にある寺院)で信長と義昭は会見(かいけん=人と人とが会うこと)しました。8月7日、信長が佐和山城(さわやまじょう=現在の滋賀県彦根市)の佐和山にあった城)に入り、初めて長政と対面しました。話は近江(おうみ=現在の滋賀県)を問題なく通過するための六角排除(はいじょ=とりのぞくこと)と義昭上洛のことでした。信長は美濃に戻り上洛の準備をし、義昭とともに佐和山城に入りました。信長は三好(みよし=現在の大阪府(おおさかふ)の大部分と、京都府(きょうとふ)の南部、兵庫県(ひょうごけん)の南東部、奈良県(ならけん)の全域)・阿波国(あわのくに=現在の徳島県(とくしまけん)を領有(りょうゆう=自分のものとして持つこと)していた戦国大名)退治(たいじ=うちほろぼすこと)の要請を六角氏に求め、断られました。断られたことで「義昭公への無礼(ぶれい=失礼)」と受け取り、六角勢の箕作城(みつくりじょう=現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山(ひがしおうみし ごかしょうやまもとちょう みつくりやま)にあった城)を攻(せ)めることにしました。9月8日、岐阜(ぎふ=現在の岐阜県南部)から一万五千の軍勢を率いて近江に入り、近江高宮(おうみ たかみや=現在の滋賀県彦根市高宮町)に着陣(ちゃくじん=陣地(じんち)に到着すること)し、三河(みかわ=現在の愛知県(あいちけん)東部)からも松平元康(まつだいら もとやす、1543~1616=安祥松平(あんじょう まつだいら)家九代当主、戦国大名、のちの徳川家康、天下人、江戸幕府の初代征夷大将軍)の軍勢一千が加わり、また、長政は三千の兵を出して、江南(こうなん=南近江)の愛知川(えちがわ=滋賀県部を流れる川)の南に布陣(ふじん=陣をかまえること)し観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町(おうみはちまんし あづちちょう)にあった城)の押さえに当たりました。箕作城の攻戦(こうせん=攻め戦うこと)は苦戦(くせん=手が強く、不利な状況で苦しい戦いをすること)をしいていましたが、藤吉郎(とうきちろう、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人))の作戦で落ち、和田山城(わだやまじょう=現在の滋賀県東近江市五個荘和田町(ごかしょうわだちょう)にあった城)もその他の支城(しじょう=本城(中心になっている城)のほかに領内各地に設けた城)も降伏(こうふく)し、六角親子は観音寺城を捨て逃亡(とうぼう=逃げて身をかくすこと)しました。信長は近江を平定(へいてい=敵をうちたいらげること)し、上洛の足場(あしば=土台)を固めました。長政は、高畠郡(たかしまぐん=現在の滋賀県にあった郡)の朽木元綱(くつき もとつな、1549~1632)とは長年敵方でしたが、信長の求めに応じに参戦したため、元綱は長政の配下に入り、父祖(ふそ=父と祖父(そふ=父の父))以来の念願であった北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)の完全制覇(せいは)をなしとげました。9月26日、信長は、南近江で降伏してくわえた兵で義昭を奉じて(ほうじて=あたかも家来であるかのごとくつき従って)京都に入りました。長政は、信長の命で三好三人衆(みよし さんにんしゅう=三好長慶(みよし ちょうけい、1522~1564=畿内(きない=現在の大阪府(おおさかふ)の大部分と、京都府(きょうとふ)の南部、兵庫県(ひょうごけん)の南東部、奈良県(ならけん)の全域)・阿波国(あわのくに=現在の徳島県(とくしまけん))の戦国大名)の武将・三好長逸(みよし ながやす)、岩成友通(いわなり ともみち、~1573)、三好政康(みよし まさやす、~1569))と松永弾正久秀(まつなが だんじょう ひさひで、1508~1577=大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん)の戦国大名)の三名)が 処る(おる=いる)勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=現在の京都府長岡京市勝竜寺(ながおか きょうし しょうりゅうじ)にあった城)を浅井三千、信長の家臣・柴田勝家(しばた かついえ、1522~1583=戦国大名)、森可成(もり よしのり、1523~1570)、蜂屋頼隆(はちや よりたか、1534~1589=大名) の七千で攻撃し、他の連合軍諸将も摂津(せっつ=現在の大阪府北部および兵庫県南東部)や河内(かわち=現在の大阪府東部)、和泉(いずみ=現在の大坂府南西部)の平定に向いました。この報を驚いた足利家栄(あしかが よしひで、1538~1568=室町幕府第14代将軍)は京都から逃亡しましたが、病(やまい=病気)に倒(たお)れしばらくしてこの世を去りました。信長は京都・清水寺(現在の京都府京都市東山区清水(ひがしやまく きよみず)にある寺院)、義昭は六条本圀時(ろくじょう ほんごくじ=現在の京都府京都市山科区(やましなく)にある寺院)、長政らも京都に入りました。10月18日、信長贔屓(びいき=自分の気に入った者に目を掛け力をそえして助けること)であった朝廷は、義昭に征夷大将軍の称号を与えました。清水寺から東寺(とうじ=現在の京都府京都市南区九条町(みなみく くじょうちょう)にある寺院)に移った信長のもとには、近畿(きんき=現在の大阪府・京都府・兵庫県・三重県・滋賀県・和歌山県)方面の諸将が次々に面会の求めがあり、信長への服属(ふくぞく=命令に従って下につくこと)を申し出ました。松永弾正久秀もそうでした。信長は約1カ月滞在(たいざい=よそに行って、ある期間そこにとどまること)し、その間に義昭を仕えてきた明智光秀が、信長に乞われて(こわれて=頼まれて)家臣になりました。12月12日、武田信玄(、たけだ しんげん、1521~1573=甲斐(かい=現在の山梨県)の守護大名・戦国大名。甲斐武田家第19代当主)が駿府(すんぷ=現在の静岡県葵区(あおいく))をおそい、今川氏真(いまがわ うじざね、1538~1615=戦国大名、今川氏12代当主)が掛川城(かけがわじょう=現在の静岡県掛川市掛川(しずおかけん かけがわし かけがわ))に逃げました。
以上諸説あり。