浅井長政(1/17)(1545年)

 浅井家(あさい け)は近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))の大名(だいみょう=ある地域を支配している者)で、名門(めいもん=立派な身分)・六角氏(ろっかく し)に従っていました。長政(ながまさ、1545~1573=北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(ひこねし とりいもとちょう))の戦国大名・浅井氏3代目当主(とうしゅ=その家の現在の主人))が15歳で家をつぐと、六角氏から離(はな)れ、領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)を拡大していきました。織田信長(おだ のぶなか、1534~1582=織田信秀の次男。戦国大名。のちの天下人(てんかびと= 国じゅうを支配するひと )は浅井氏と同盟(どうめい=共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること)を結ぼうとして、妹・お市の方(おいちのかた、1547~1583)を長政と結婚させました。そのとき信長は長政と「浅井氏と仲の良い朝倉義景(あさくら よしかげ、=越前国(えちぜんのくに=現在の福井県(ふくいけん)北部)の戦国大名。越前朝倉氏11代当主)を勝手に攻(せ)めない」という約束を結びました。しかしその後、信長は朝倉氏を攻撃(こうげき)しました。怒(おこ)った長政は信長と同盟を破り、義景に味方して、金ヶ崎(かねがさき=現在の福井県)で信長をはさみうちにしました。しかし信長ににげられ、今度は姉川の戦い(あねがわのたたかい=姉川(現在の滋賀県)を挟んで起こった織田・徳川(とくがわ)軍と浅井・朝倉軍との戦い)で信長に敗れてしまいました。その後、信長は朝倉氏をほろぼすと、長政のいる小谷城(おだに じょう=滋賀県長浜市湖北町伊部(こほくちょう いべ))への攻撃を開始しました。信長に降伏(こうふく=敵に対して自ら敗れたことを認め、敵にしたがうこと)をすすめられたが、長政は受け入れず、小谷城は落城(らくじょう=城が攻め落とされること)すると、長政は妻と子を城からにがし、自ら命を絶ちました。

ここでは、浅井長政が生まれた1545年を勉強します。

1545年(天文(てんぶん)十四年) このころ、浅井氏は六角氏の支配下でした。そのため、 長政は、この年の夏、六角氏の居城(きょじょう=領主がふだん住んでいる城)・観音寺城下(かんのんじ じょうか=現在の滋賀県近江八幡市安土町(おうみはちまんし あづちちょう))で、小谷城主・浅井久政(あさい ひさまさ、1524~1573=北近江の戦国大名・浅井氏2代目当主)の嫡男(ちゃくなん=正妻が生んだ最初の男子)として誕生しました。母は小野殿(おのどの、1527~1573)で、幼名は猿夜叉(さるやしゃ)でした。

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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