浅井長政(14/17)(1570年7月~12月)

ここでは、1570年7月~12月に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1570年( 元亀(げんき) 元年)7月1日、織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと))が、浅井氏の磯野員昌(いその かずまさ、1523~1590)の佐和山城を攻撃しましたが、抗戦(ていこう=外部から加わる力に対して、はむかうこと)され、落とすことができないまま、丹羽長秀(には ながひで、1535~1585=大名)の三千を抑え(敵の侵攻を防ぐこと)として残し、4日、入洛(にゅうらく=京都に入ること)し、将軍・足利義昭(あしかが よしあき、=室町幕府(むろまちばくふ=足利尊氏が京都で創始(そうし=新たに物事をはじめること)した武家政権)第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))のいる二条城(にじょうじょう=)に入り、姉川合戦(あねかわかっせん=)の勝利を報告しました。義昭は派遣(はけん=任務を負わせて、他の場所に行かせること)していた忍び(しのび=人に知られないように、ひそかに物事をすること)から合戦の結果はしっており、小谷城(おだにじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(しがけん ながはまし こほくちょう いべ))も落とせず、長政の首を取ることもできなかったにもかかわらず、信長に最大限の讃辞(さんじ=ほめる言葉)を贈りました。そして信長は、京都から岐阜(ぎふ=現在の岐阜県岐阜市)に凱旋(がいせん=戦いに勝って帰ること)しました。8月中旬、三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸(みよし ながやす)、三好宗渭(みよし そうい、~1569)、岩成友通(いわなり ともみち、~1573)の3人)一万三千の兵が義昭の呼びかけで、野田(のむら=現在の愛知県新城市豊島(あいちけん しんしろし とよしま))・福島(ふくしま=現在の大阪府大阪市福島区(おおさかふ おおさかし ふくしまく))に陣(じん=軍隊の集結している所)を構え、織田軍と戦が始まりました。また、本願寺の顕如も北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(ひこねし とりいもとちょう)の一向宗徒(いっこうしゅうと=浄土真宗の信者)に檄を飛ばし(げきをとばし=元気のない者に刺激を与えて活気づけ)、湖北(こほく=北近江)の十ヶ寺(じゅっかじ=現在の滋賀県長浜市の十個のお寺)に指令を出し、「浅井とともに信長を倒せ」と檄文(げきぶん=自分の考えや主張を述べて大衆に行動を促す文書)を送り、一向宗(いっこうしゅう=浄土真宗)も立ち上がりました。長政も今度こそ姉川の敗戦の借りを返すべく、朝倉義景(あさくら よしかげ、1533~1573=越後国の戦国大名。越前朝倉氏第11代の当主(その家の現在の主人))の出馬を促し(うながし=早くするようせきたて)、朝倉勢二万五千の大軍が一乗谷(いちじょうだに=現在の福井県福井市城戸ノ内町(ふくいけんふくいしきどのうちちょう))を発し、9月半ばに小谷城に着きました。9月16日、浅井・朝倉の連合軍三万の兵で湖北に進撃(しんげき=前進して敵を攻撃すること)し、坂本(さかもと=現在の滋賀県大津市坂本)に布陣し、一向宗の門徒(もんと=信者)も集まりました。19日、信長の弟・織田信治(おだ のぶはる、1544~1570=織田信秀の五男)、森可成(もり よしなり、1523~1570)らが守っていた宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市南滋賀町(おおつし みなみしがちょう))を攻め落とし、坂本周辺に火を放ち、坂本を完全に支配しました。磯野員昌の兵は、さらに京都まで攻め込みました。岐阜にいた信長は四面楚歌(しめんそか=周りに味方がなく、周囲が反対者ばかりの状況)のなかで呻吟(しんぎん=)しました。坂本は比叡山(ひえいざん=現在の滋賀県大津市西部と京都府京都市(きょうとふ きょうとし)北東部にまたがる山)の町、浅井・朝倉軍を公然(こうぜん=広く知れわたっているさま)と支援し、比叡山を宿舎としました。浅井・朝倉勢は比叡山の周囲、蜂が峯(はちがみね)、青山(あおやま)、局笠山(つぼかさやま)に陣を取りました。六角氏(ろっかくし)もこの動きに勢いを盛り返し、浅井、朝倉、六角、本願寺、比叡山の大連合軍となりました。信長は形勢不利(けいせいふり)と見て、家康(いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家九代当主。のちの天下人、江戸幕府(えどばくふ)初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))に救援を求め、二千の兵で六角氏の牽制(けんせい=作戦上、敵を自分の望む方にひきとめたり引きつけたりすること)に当たりました。24日、信長が大津の堅田口(かたたぐち)に姿を現し、三万五千の軍勢(ぐんぜい=軍隊)が比叡山の麓(ふもと=山の下の方の部分)を配し、じっとして動きませんでした。11月に渡って膠着状態(こうちゃくじょうたい=物事が進まず行き詰まっている状態)が続きました。信長はこの間、藤吉郎(とうきちろう、1537~1598=大名。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人)を使い、義昭に正親町天皇(おおぎまちてんのう、1517~1593=第106代天皇、在位1557~1586)を口説かせ綸旨(りんじ=天皇の命令)を手に入れ、11月28日、義昭を坂本に行かせ、和平調停(わへいちょうてい=二者以上の当事者を話し合いの場につけること)を行わせました。織田側は、佐久間信盛(さくま のぶもり、1528~1582)と不破光治(ふわ みつはる、~1580)、浅井は安養寺氏種(あんようじ うじたね、1538~1606=)、朝倉は鳥居景近(とりい かげちか、~1573)、比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町(さかもとほんちょう)にある寺社)からも出ました。協議は佐久間から「江北の支配を浅井三分の一、織田三分の二」そして「以降、戦はしない」という提案がでました。もちろん安養寺は「最低でも半分」と拒否し、延暦寺は「戦いをしないなど信じられない」と抵抗しました。ただ鳥居だけは長引いて雪で帰路が不通になるのを恐れ、「和議には反対ではない」としました。交渉はしばしば中断しましたが、義景が織田の提案の賛同に抵抗できず、12月13日、三井寺(みついでら=現在の滋賀県大津市にある寺社。長等山園城寺(ながらやま おんじょうじ))で信長、義景、長政の会談が行われ、織田の提案どおりとなり、14~15日にお互いの人質を交換し、お互いの陣を焼き、両軍とも帰路につきました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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