ここでは、1554年~1556年までに、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1554年(天文(てんぶん)二十三年)藤吉郎(とうきちろう、=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし))が織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。天下人(てんかびと=天下(てんか=国じゅう)の政権を掌握(しょうあく=自分の思いどおりにすること)した人))に仕え始めました。
1555年(天文二十四年)9月、朝倉宗滴(あさくら そうてき、1477~1555=越前国(えちぜんのくに=現在の福井県(ふくいけん)北東部)の戦国大名・朝倉氏(あさくら し)の家臣(かしん=けらい))が亡くなりました(享年(きょうねん=死んだ時の年齢)七十七)。
1555年(弘治(こうじ)元年)5月、織田信長は織田信光(おだ のぶみつ、1516~1556=織田信定(のぶさだ、~1538=織田信長の祖父(そふ=父母の父))の子)と謀って(はかって=計画して)清洲城(きよす=現在の愛知県清須市一場(あいちけんきよすしいちば)にあった城)を居城(きょじょう=城主などが、日頃住んでいる城)としていた織田宗家(そうけ=本家)の嫡当(守護代)であった織田彦五郎広信(ひこごろう ひろのぶ、~1555=織田信友(のぶとも))を謀殺(ぼうさつ=あらかじめ計画して人を殺すこと)しました。信長は、これを機に清洲城に移り、信光には自分がいた那古野城(なごや じょう=現在の愛知県名古屋市中区(なごやし なかく)にあった城)を与えました。7月、織田信次(のぶつぐ、~1574=織田信定の子)の家臣によって織田秀孝(おだ ひでたか、~1555=信長の弟)が弓矢で殺され、信次は事件を知ってどこかに身を隠(かく)してしまいました。11月、信長とともに織田彦五郎広信を謀殺した信光が、那古野城で家臣によって殺されてしまいました。
1556年(弘治二年)7月、守山城(もりやま じょう=現在の愛知県名古屋市守山区市場(もりやまくいちば)にあった城)で織田秀俊(ひでとし、~1556=織田信時(のぶとき))が家臣に殺されてしまいました。8月、織田信秀(のぶひで、=1510~1551)以来の織田家家臣であった林秀貞(はやし ひでさだ、1513~1580)や柴田勝家(しばた かついえ、1522~1583=戦国大名)が織田信行(のぶゆき、~1558=信長の弟)の命令で挙兵(きょへい=兵を集めて戦いを起こすこと)しまいた。信行・千五百、信長・七百にもかかわらず、信長が圧勝し、信行は末森城(すえもり じょう=現在の愛知県名古屋市千種区城山町(ちくさくしろやまちょう)にあった城)に逃げ込みました。
以上諸説あり。