ここでは、1551年~1560年までに、毛利元就(もうり もとなり)が、たずさわったことを勉強します。
1551年(天文(てんぶん)二十年)8月、陶晴賢(すえ はるたか)が挙兵(きょへい=)し、大内義隆(おおうち よしたか)を滅(ほろ)ぼしました(大寧寺(たいねいじ= 現在の山口県長門市深川湯本(やまぐちけんながとしふかわゆもと) にある寺院)の変)
1554年(天文二十三年)5月、陶晴賢と関係を断ち、明石口(あかしぐち)で陶軍を破りました。
1555年(弘治(こうじ)元年)9月、厳島(いつくしま=現在の広島県廿日市市宮島町(ひろしまけんはつかいちしみやじまちょう)にある島)で陶晴賢を破りました(厳島の戦い)。同年、防長二国(ぼうちょうにこく=現在の山口県(やまぐちけん))経略(けいりゃく=四方の敵地を平定(へいてい=敵や賊(ぞく)を討ち平らげること)し、天下を治めること)に着手しました(ちゃくしゅしました=とりかかりました)。
1557年(弘治三年)1月、尼子晴久(あまご はるひさ)を破り、石見銀山(いわみぎんざん=現在の島根県大田市(しまねけん おおだ)にある銀山)を支配下に置きました。5月、大内義長が自害し、大内氏が滅びました。11月、隆元(たかもと)・元春(もとはる)・隆景(たかかげ)の三子へ、教訓状(きょうくんじょう=三子に書いた文書)を認めました(したためました=文章を書きました)。この年に防長二国を平定しました。またこの年、安芸国(あきのくに=現在の広島県(ひろしまけん)西部)・備後国(びんごのくに=現在の広島県東半分)の豪族(ごうぞく=その土地に長く住み、広い土地や大きな財産を持ち、強い勢力を張る一族)たちに、軍勢狼藉(ぐんぜいろうぜき=軍による乱暴な行い)の禁止を約束させました。
1558年(永禄(えいろく)元年)尼子氏に石見銀山を奪還されました(だっかんされました=奪(うば)いかえされました)。
1559年(永禄二年)隆元、豊前国(ぶぜんのくに=現在の福岡県(ふくおかけん)東部)で大友氏(おおともし)と戦いました。
1560年(永禄三年)陸奥(むつ=現在の青森県(あおもりけん)・岩手県(いわてけん)・宮城県(みやぎけん)・福島県(ふくしまけん)・秋田県(あきたけん)北東部)守(かみ=地方官の長)を命ぜられました。隆元は、大膳大夫(だいぜん だいぶ=大膳職(だいぜんしき=副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当した役職)の長官。正五位下(せいごいげ)に相当)に命ぜられ、安芸国守護(しゅご=警備、治安維持の役職)となりました。元春は、駿河(するが=現在の静岡県(しずおかけん)中部・北東部)守に命ぜられました。この年、桶狭間(おけはざま=現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域)の合戦で、織田信長(おだ のぶなが)が今川義元(いまがわ よしもと)を破りました。
以上諸説あり。