ここでは、1542年~1550年までに、毛利元就(もうり もとなり)が、たずさわったことを勉強します。
1542年(天文(てんぶん)十一年)大内義隆(おおうち よしたか)の出雲国(いずものくに=現在の島根県(しまねけん)東部)遠征(えんせい=敵を討(う)つために遠くまで出かけること)に従軍(じゅうぐん=軍隊につき従ってともに戦地へ行くこと)しました。
1543年(天文十二年)大内義隆の尼子(あまご=出雲国)攻(せ)めに従軍しました。同年、種子島(たねがしま=現在の鹿児島県(かごしまけん)に属し、大隅諸島(おおすみ しょとう)を構成する島の一つ)にポルトガル人が漂着(ひょうちゃく=ただよい流れて岸に着くこと)しました(鉄砲伝来(てっぽう でんらい))。
1544年(天文十三年)三男・隆景(たかかげ)を、安芸国(あきのくに=現在の広島県(ひろしまけん)西部)小早川氏(こばやかわし)へ養子(ようし=具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させること)入(い)りさせました。
1545年(天文十四年)妻・妙玖(みょうきゅう)が亡(な)くなりました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)48歳でした。
1546年(天文十五年)長男・隆元(たかもと)に毛利家(もうりけ)の家督(かとく=あととり)を譲(ゆず)りました。
1549年(天文十八年)次男・元春(もとはる)に、安芸国吉川氏(よしかわし)の家督を継(つ)がせました。元春と隆景を伴い(ともない=引き連れ)、大内義隆に拝謁(はいえつ=身分の高い人に面会すること)しました。
1550年(天文十九年)隆景に、安芸国小早川氏の家督を継がせました。元春は、吉川興経(きっかわ おきつね)父子を殺害しました。家臣(かしん=けらい)の井上(いのうえ)一族(いちぞく=血のつながりのある者たち)を誅殺(ちゅうさつ=罪ある者を、その罪を理由として殺すこと)しました。五人奉行制(ごにん ぶぎょうせい)を成立させました。安芸国・石見国(いわみのくに=現在の島根県(しまねけん)西部)・備後国(びんごのくに=現在の広島県(ひろしまけん)東部)の一部を、支配下に置きました(毛利両川体制(もうり りょうせん たいせい))。
以上諸説あり。