ここでは、1500年~1517年までに、毛利元就(もうり もとなり)が、たずさわったことを勉強します。
1500年(明応(めいおう)九年)弘元(ひろもと=元就の父)が毛利家の家督(かとく=あととり)を長男・興元(おきもと=元就の兄)に譲(ゆず)りました。松壽丸(しょうじゅまる=のちの元就)、弘元とともに吉田郡山城(よしだこうりやまじょう=広島県安芸高田市吉田町吉田(ひろしまけん あきたかたし よしだちょう よしだ)にあった城)から多治比猿掛城(たじひさるがけじょう=現在の広島県安芸高田市吉田町多治比(ひろしまけん あきたかたし よしだちょう たじひ)にあった城)に移りました。
1506年(永正(えいしょう)三年)この年、父・弘元がなくなりました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)41歳でした。
1508年(永正五年)興元が、大内義興(おおうち よしおき)に従い、上洛しました(らくじょうしました=京都に行きました)。
1511年(永正八年)元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式(ぎしき=行事))して少輔次郎元就(しょうのじろうもとなり)と名乗りました。興元、大内義興に無断(むだん=ことわらない)で帰国しました。
1512年(永正九年)興元を含む(ふくむ)安芸(あき=現在の広島県西部)の豪族(あきのごうぞく=安芸に長く住み、広い土地や大きな財産を持ち、強い勢力をはる一族)九名が、盟約を結びました(めいやくをむすびました=かたく誓って(ちかって)約束しました)。
1516年(永正十三年)この年、兄・興元がなくなりました。享年24歳でした。そして、興元の子・幸松丸(こうまつまる)が毛利家の家督を相続しました(そうぞくしました=うけつぎました)。元就は、毛利氏の庶家(本家より別れた一族)・多治比殿(たじひどの)となりました。
1517年(永正十四年)山県郡有田城(やまがたぐん ありたじょう=現在の広島県山県郡北広島町有田(ひろしまけん やまがたぐん きたひろしまちょう ありだ)にあった城)外(がい)において、安芸国(あきのくに=現在の広島県西部)守護(しゅご=室町幕府の職名の一つ)家の武田元繁(たけだ もとしげ)と戦って勝利し、初陣(ういじん=初めて戦い)を飾りました(有田中井手の合戦(ありたなかいでのかっせん))。
以上諸説あり。