
武田氏(たけだし)は甲斐(かい=現在の山梨県)の守護(しゅご※1)でしたが、まわりの国との争いが絶えませんでした。武田信玄(たけだ しんげん)の父・信虎は家臣(かしん=けらい)を大事にせず、逆らう者は平気で殺していました。信玄は「これでは、いい国にならない」と思い、1541年、信玄は父を甲斐から追放し、武田氏を継ぎました。「喧嘩(けんか)はお互いが悪い」と考えた信玄は、「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」を取り入れた法律をつくりました。また信玄は、「人は石垣(いしがき)、人は城」と話し、人は国を作る上で最も大切なものと考え、能力や、やる気のある家臣には、身分に関係なく大事な仕事を任せ、出世させました。さらに信玄は、道路を整え、洪水をふせぐ川の工事を進め、新しく田畑を開き、農業を発展させました。また、領内の金山を開発して金貨を作り、経済の発展にも努めました。こうして甲斐国は豊かになり、領民と信玄は強い絆(きずな)で結ばれました。
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※1 しゅご だいみょう=室町時代(むろまち じだい※1-1)の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人
※1-1 むろまち じだい=足利(あしかが)将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん※1-1-1))家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代。
※1-1-1 せいいたいしょうぐん=武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。
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ここでは、武田信玄が生誕する(1521年)ところから、妻(上杉朝興(うえすぎ ともおき)の娘)が、懐胎(身ごもる)するが、難産の末、母子ともに死去してしまうところ(1534年)まで勉強します。
1521年(大永(だいえい)元年)11月、甲斐国(かいのくに=現在の山梨県)守護・武田信虎(たけだ のぶとら)の嫡男(ちゃくなん)として
石水寺要害城(せきすいじ ようがいじょう= 現在の山梨県甲府市上積翠寺町にある寺院)で生まれました。初名(しょめい=初めの名前)は太郎でした。
1522年(大永二年)二月、信虎、身延山(みのぶさん=現在の山梨県南西部身延町と早川町の境にある山)で受法(じゅほう=師匠から法を受けること)しました。
1523年(大永三年)六月、信虎、信濃(しなの=現在の長野県)善光寺(ぜんこうじ=現在の長野県長野市元善町)に参詣(さんけい=お参りすること)しました。
1524年(大永四年)信虎、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府が関東の政治を一つにまとめて管理させるため鎌倉においた職名)の上杉憲房(うえすぎ のりふさ)と戦い、11月、和睦しました(争いをやめて仲直りすること)。
1525年(大永五年)二月、信虎、長尾為景(ながお ためかげ)が北条氏綱(ほうじょう うじつな)に送る鷹(たか)を、道すじで奪(うば)いました。
1526年(大永六年)七月、信虎の兵、北条氏綱(ほうじょう うじつな)と駿河(するが=現在の静岡県中部)梨の木平(なしのきだいら=現在の静岡県御殿場市)で戦いました。
1527年(大永七年)四月、信虎に将軍足利義晴(あしかが よしはる)から上洛する(地方から京都に行く)よう御内書(将軍からの公的文書)が届きました。今川氏輝(いまがわ うじてる)と和睦しました(争いをやめて仲直りすること)。
1528年(享禄(きょうろく)元年)九月、信虎、諏訪頼満(すわ よりみつ)と信濃神戸境川(しなの ごうど さかいがわ=現在の長野県諏訪郡富士見町)で戦い大敗しました。
1530年(享禄三年)四月、北条氏綱(ほうじょう うじつな)が甲斐(かい=現在の山梨県)にて小山田越中守(おやまだ えっちゅうのかみ)を同国箭壺坂(せんつぼざか)で破りました。
1531年(享禄四年)四月、信虎、栗原兵庫(くりはら ひょうご)ら及び諏訪頼満(すわ よりみつ)と戦い大勝しました。
1532年(天文(てんぶん)元年)九月、信虎、栗原兵庫(くりはら ひょうご)の与党(同町する仲間)今井信元(いまい のぶもと)を攻め負かし従えました。
1533年(天文二年)この年、太郎(のちの武田信玄)は、上杉朝興(うえすぎ ともおき)の娘を妻として迎えました。
1534年(天文三年)十一月、妻(上杉朝興(うえすぎ ともおき)の娘)が、懐胎(かいたい=身ごもること)するが、難産の末、母子ともに死去してしまいました。
以上所説あり。