ここでは、信玄の父が上京する年(1563年)から孫信勝が生誕し、母遠山氏が亡くなるところ(1567年)までを勉強します。
1563年(永禄(えいろく)六年)正月、信虎(信玄の父)、駿河(するが=現在の静岡県中部)を去り上京しました。二月、北条氏康(ほうじょう うじやす)とともに武蔵松山城(むさし まつやま じょう=現在の埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山)を攻め落としました。
三月、信濃塩尻宿(現在の長野県塩尻市)の伝馬条規(てんま じょうき=馬で郵送することの決まり)を定めました。十二月、上州倉賀野地方(じょうしゅう くらがの ちほう=群馬県の中央部)を侵略しました。
1564年(永禄七年)三月、義輝、信玄・輝虎・氏康の三和をはかりました。四月、芦名盛氏(あしな うじもり)、信玄の命により出兵し越後()を侵略しました。
五月、上野国(こうずけのくに)より信濃佐久郡平原(しなの さくぐん ひらはら=現在の長野県小諸市平原)に兵を返しました。七月、山県昌景(やまがた まさかげ)、飛騨(ひだ=現在の岐阜県北東部)に攻入りました。
八月、川中島で対陣しました(川中島の戦い(第五次))。
1565年(永禄八年)二月、上野箕輪城(こうずけ みのわ じょう=現在の群馬県高崎市箕郷町にあった城)にて戦勝するため諏訪社などに祈をしました。六月、上野倉賀野城(こうずけ くらがの じょう=現在の群馬県高崎市倉賀野町)を攻め落としました。
十一月、四郎勝頼(しろう かつより)、織田信長(おだ のぶなが)の養女遠山氏(ようじょ とうやまし)を娶(め)りました(結婚)。
1566年(永禄九年)五月、北条氏政(ほうじょう うじまさ)室(妻)の平産を祈りました。九月、上野箕輪城(こうずけ みのわ じょう=現在の群馬県高崎市箕郷町にあった城)を攻め落としました。
十二月、武蔵浅草寺(むさし せんそうじ)に祈願成就(きがんじょうじゅ)を祈りました。
1567年(永禄十年)二月、孫信勝(のぶかつ)が生まれました。母遠山氏が亡くなりました。五月、関東(かんとう=現在の関東地方と静岡県伊豆半島と山梨県)に出陣しました。八月、太郎義信(たろう よしのぶ)は自刃してしました。室今川氏を離別(離婚)しました。
今川氏真(いまがわ うじざね)、北条氏康(ほうじょう うじやす)と謀り(たばかり=だますこと)、甲斐(かい=山梨県)への塩の輸送を止めました。十一月、織田信長(おだ のぶなが)の長子(長男)奇妙丸(きみょうまる=信忠(のぶたた))に女と結婚の約束をしました。
以上諸説あり。