ここでは、信虎と頼満が会盟(1535年)するところから、禰津元直の女と結婚する(1542年)ところまでを勉強します。
1535年(天文(てんぶん)四年)七月、今川氏輝(いまがわ うじてる)・北条氏綱(ほうじょう うじつな)の軍、甲斐都留郡(かい つるぐん=山梨県現在の北都留郡・大月市・上野原市・都留市・富士吉田市および南都留郡の一部)内に侵入しました。
九月、信虎(のぶとら=信玄の父)、諏訪碧雲斎(すわ へきうんさい=頼満(よりみつ))と会盟しました(かたく約束を結ぶこと)。
1536年(天文五年)三月、太郎は元服(成人)し、晴信(はるのぶ)と名乗りました、従五位下(じゅうごいげ=位階の一。従五位上の下、正六位上の上)に叙し(じょし=勲章を授け)、大膳大夫(だいぜんのだいぶ=大膳職の長官)に任ぜられる。
六月、武田氏奉行衆、国を撤去しました。
1537年(天文六年)二月、信虎の女を今川義元(いまがわ よしもと)に嫁がせました。のち北条氏綱(ほうじょう うじつな)が駿河(するが=現在の伊豆半島を除く静岡県)に侵入したため、
今川氏(いまがわし)を赴援(ふえん=助けに行く)のため須走(すばしり=現在の静岡県北東端,小山町の集落)に出陣しました。
1538年(天文七年)甲相(こうそう=武田と北条)の争(あらそい)がつづきます。七月、信虎、善光寺(ぜんこうじ)にもうでました。八月、信虎、大井信達(おおい のぶさと)・冷泉為和(れいぜい ためかず)を招き和歌会を催しました(もよおしました=開く)。
この年、晴信(はるのぶ)の子太郎誕生しました。
1539年(天文八年)甲相(こうそう=武田と北条)の争(あらそい)がつづきます。
1540年(天文九年)五月、信虎、信濃佐久郡(しなののくに さくぐん=現在の長野県佐久市、北佐久郡、南佐久郡)を侵略しました。八月、佐久郡海ノ口(さくぐん うみのくち=現在の長野県南佐久郡南牧村大字海ノ口)に
伝馬の制(てんまのせい=公用の人や荷物の継ぎ送りにあたった馬をいう)を下しました。信虎の女禰々、諏訪頼重に嫁ぎました。
1541年(天文十年)五月、信虎、諏訪氏(すわし)とともに海野氏(うんのうじ)を破りました。六月、信虎、駿河(するが)に追放されました。晴信(はるのぶ=のちの信玄)、自立しました。
1542年(天文十一年)六月、晴信、諏訪氏(すわし)を攻めました。七月、諏訪頼重(すわ よりしげ)、甲斐府中(かい ふちゅう=現在の山梨県甲府市)にて自刃しました。九月、高遠頼継(たかとお よりつぐ)を攻めて破りました。
十二月、晴信、禰津元直(ねつ もとなお)の女を娶りました(結婚しました)。
以上諸説あり。