本多忠勝(7/8)(1595年~1600年7月)

ここでは、1595年~1600年7月までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。

1595年(文禄(ぶんろく)四年)この年、徳川家康(とくがわ いえやす)は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の命(めい=言いつけ)で上洛(じょうらく=京都に行くこと)し、豊臣政権(とよとみ せいけん=豊臣氏による日本国の政権(せいけん=国の政治機構(せいじきこう=国家を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み、組織、機関のこと)を動かす政治権力(せいじけんりょく=政治的な機能を遂行(すいこう=なしとげること)するために、国民の生活や行動を拘束(こうそく=行動の自由をしばること)する力)のこと)の中枢(ちゅうすう=中心となるだいじなところ)を担いました(にないました=自分の責任として引き受けました)。

1598年(慶長(けいちょう)三年)7月、家康が、豊臣政権の五大老(ごたいろう=豊臣政権下の最高の職名(徳川家康・毛利輝元(もうり てるもと)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)・前田利家(まえだ としいえ)・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の5人))に任ぜられました(にんぜられました=役目につかせました)。8月18日、豊臣秀吉が病死(びょうし)しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)62歳でした。

1599年(慶長四年)閏3月3日、五大老の一人・前田利家が病死しました。享年62歳でした。同月、石田三成(いしだ みつなり)が失脚(しっきゃく=地位を失うこと)し、近江国佐和山城(おうみのくに さわやまじょう=現在の滋賀県彦根市(しがけん ひこねし)にあった城)で蟄居(ちっきょ=城の中にとじこもって外出しないこと)しました。

1600年(慶長五年)6月、家康が、上杉征討(せいとう=兵を出して、逆らう者を討ちしずめること)に出陣(しゅつじん=戦場へむかうこと)し、忠勝も従軍(じゅうぐん=軍隊につき従ってともに戦場へ行くこと)しました。7月、石田三成が家康打倒(だとう=打ち倒すこと)のため、挙兵(きょへい=兵を集めて戦いを起こすこと)し、西軍を形成(けいせい=形作ること)しました。同月、家康が、下野国小山(しもつけのくに おやま=現在の栃木県小山市(とちぎけん おやまし))で評定(ひょうじょう=皆で相談して決めること)を開き、上方(かみがた=京都付近)に折り返し、東軍を形成しました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA